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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

バイロン・ハワード/リッチ・ムーア監督『ズートピア』

2015-2019 ★★★★1/2 バイロン・ハワード リッチ・ムーア ESSENTIAL (BEST NEW MOVIE)

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ズートピア』(Zootopia, 2016)バイロン・ハワード/リッチ・ムーア

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 仮にも先進国に生きる人々が、21世紀になっても(主に人種の違いに基づく)差別の問題でグズグズになっているとは夢にも思わなかった・・・・と、優等生的なため息をもっともらしくついてみせるのは、さすがに人間様を好意的に評価し過ぎだろうか。にしても、さすがに21世紀の人間はもう少しマシであるべきだろう。と、思うことすら望み過ぎなのだろうか。ヨーロッパにしろ、アメリカにしろ、そしてここ日本にしろ、背景にあるものに違いこそあれ、そのグズグズっぷりでは同じようにヤバいようと感じる。そしてそれは、どうやら動物たちの世界でも同じらしい。

 差別――。そう、これがディズニーの新作アニメーション映画、『ズートピア』の主題である。それも、「ダメ。ゼッタイ。」的な、何の効果もないが役所としてのアリバイは是非とも作っておきたいというような、いかにも官僚主義的な啓蒙を目指した作品ではない。「差別はあってはならない」「差別は絶対にしてはいけない」ではなく、「あなたの中にも何かを/誰かを差別してしまう心が絶対に隠れている」ということを突きつける、ある意味ではとても残酷な作品なのだ。問題は、そんな自分をどう引き受け、どう生きていくかだと、『ズートピア』は言っている。端的に、素晴らしい作品だと思う。

 同じことをスタジオジブリにやらせたら、絶対に陰湿なしょうもない作品になるだろう。が、さすがはディズニー。こうした重い主題を背負いながらもそうとは微塵も感じさせぬ、ファンシーでバブルガムな超ド級のポップ・ムービーに仕上げている。もちろん、そのしたたかさを「計算高い」「マーケティングばっちり」などと言って済ませようとするシニシズムは、時代遅れであるという以上にただひたすらダサいのでここでは不要である。劇中で幾度となく反復される言葉でもあるのだが、「世界をより良くしたい」という青臭い思いは、製作側の嘘偽りない願いなのではないだろうか。

 

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 作品の舞台となるのは、食物連鎖ヒエラルキーから解放された理性ある動物たちが、人間のように二足歩行し、服を着て、言葉を使ってコミュニケーションする架空の世界である。中でも、高度に経済発展した大都市「ズートピア」は、その名のとおり動物たちにとってのユートピアとして(特に世間知らずの田舎者たちから)信じられており、ありとあらゆる種類の動物たちが入り混じって暮らしているサラダボウル的な都市だ。そこで、世間知らずで杓子定規な正義に燃えるウサギの女の子=ジュディと、情熱的に生きることを忘れてしまった擦れっ枯らしのキツネ=ニックとが出会う。

 ジュディは、世界をより良くするのが夢で、小さなころから警察官を目指している。が、彼女が暮らす世界では、性別や種族といったその人の意思や努力ではどうにもできない人生の初期値によって、ある程度職業が分別されており、ウサギが、まして女の子のウサギが警察官になるなど夢のまた夢・・・・といった世界なのだ。それに、ジュディが生まれた村はウサギの農家などがつつましく暮らすド田舎であり、住民の意識も低い。かつて、村のガキ大将であるキツネの男子に突き飛ばされ、お前に警察など無理だと馬鹿にされたことが、彼女の中で忘れがたい記憶となっている。

 その後、ジュディは厳しい鍛錬の果てに警察学校を首席で卒業、ウサギ史上初の警察官として大都市「ズートピア」の第一分署に配属となる。が、署長に任命されたのは路上駐車の取り締まり係。14匹もの行方不明者が一向に見つからない懸案事項を署として抱えているにも関わらず、だ。その取り締まり業務のさなかで出会ったのがニックというわけだが、それがどのような経緯によるものかはいちいち触れずにおこう。重要なのは、彼もまた(当然、主題からの要求として)キツネであったということである。ジュディの古傷をチクチクさせる存在として、あるいはまたその傷を癒す可能性を秘めた存在として、ニックは振る舞っている。

 

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 2007年の『魔法にかけられて』以降のディズニー現実路線、と単純に判断していいのか分からないが、ジュディは世界の美しい側面だけに酔いしれているタイプの女の子ではないし、王子様のお迎えを待っているタイプの女の子でもない。誰も世界を救わないなら私が救うわ、というタイプの熱血漢である。一方、ニックと言えば、とある過去のトラウマにより情熱的に理想を追い求めることをやめてしまった虚しい男であり、キツネという動物に世間が寄せる「ずる賢い」というイメージをあえて標榜する、そんなシニカルな生き方をしているプロの詐欺師である。

 こんな二人が出会ったところで、警察と詐欺師という関係しか生まれぬ筈である。考えるまでもなく、自分がニックだったらこんなに口うるさい潔癖症のウサギには惚れぬだろうし、自分がジュディだったらこんなに言い訳ばかりのしょっぱい男には惚れぬだろう。それに、ニックは子持ちのお父さんという設定で登場するため、この二人にロマンスはないのだろうと、早い段階で見切りをつけてしまう誘導にもなっている。しかし、きゅんきゅんのロマンスではなくとも、ニックの「うまくやる」要領の良さに影響を受けたジュディは少しずつ処世の術を身につけ、ジュディの情熱にあてられたのか、ニックも少しずつ真っ当なエモーションを取り戻していく。その過程は実にチャーミングだ。

 実際、キツネにトラウマを持つジュディを騙したニックを、詐欺師顔負けのテクニックでジュディが逆にハメて脅し、行方不明者の追跡に無理やり協力させるのだが、その担当事件にジュディが職業人生を賭けている(というか、賭けさせられている)ことを知ったあとの、ゴンドラでのシークエンスの素晴らしさはどうだ。必要以上に気張っていることの理由を知られてしまったことの気まずさがジュディにはあり、相手の熱意に同調し、ニヒルなキャラが崩れてしまったことの気まずさがニックにはあるのだが、そのわだかまりがどうにか乗り越えられそうになるとき、二人の距離は少しだけ縮まり、ロマンスの予感がほんのりと薫る。

 

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 活劇の舞台となる「ズートピア」では、肉食動物たちが理性を失い野生に戻って("gone savage")しまい、凶暴な殺傷事件を頻発させている。総人口の9割を占める草食動物たちは、肉食動物たちへの恐怖と憎悪を爆発させるだろう。実際、その恐怖につけ込んだ怪しい動きもあるようだ。そこには、「多い方に媚びた方が勝つ」という、選挙を通じた間接民主主義の限界がさりげなく露呈されている。ジュディはiPhoneの懐中電灯と、人参型のレコーダーを駆使し、ニックとともにその謎の中心へと近づいていく。動物の暗黒街を仕切るゴッドファーザー、映画の海賊版を露店で売るちんけなチンピラ、登場人物たちもいちいち気が利いている。

 そして、主題となる差別についてだ。仮に、すげえ嫌な奴がいたとする。で、そいつがたまたまキツネだったとする。それと同時に、世間に「キツネは嘘つきで嫌な種族だ、あいつらを信じるな」という言説が固定的に流れていたとすると、たった一度の個人的な体験がたちまちそこにショートし、あっという間にその人の中で「やっぱりキツネは」と一般化され、キツネという種族に対して全体化されてしまう。こうした単純でありながらも強力な差別の構造を、ジュディの胸の痛みと共に体験していく仕組みになっており、「あなたの中にも何かを/誰かを差別してしまう心が絶対に隠れている」ことに観る者は気付かされるのではないだろうか。

 もっと言えば、偏見を一般化し、それを全体化して何かのカテゴリーに当てはめてしまいそうになった時に、「傷つけることになる個別具体的な誰かの顔」を持っているか否かが、そこでは重要になってくるだろう。『ズートピア』は、その「傷つけたくない誰か(=ニック)」とのロマンスによってそれを乗り越えていくという、いかにも映画らしい予感に満ちているが、言うまでもなくそのロマンスとは、運命のお姫様/王子様とが宿命的に出会った途方もなさから来るものではなく、いま目の前にいる「たまたま」出会った相手と、それでもできる限り誠実に向き合おうとした結果もたらされた小さな予感として、そこにあるのだ。