饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

デミアン・チャゼル監督『セッション』

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『セッション』(Whiplash, 2014) デミアン・チャゼル

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星野源だの福山雅治だの、あるいは売り出し中の無味乾燥なギター・ロック・バンドのベーシストなんかを「変態」と呼ぶ文化には苦笑すら浮かべられぬような人間からすれば、この『セッション』(Whiplash, 2014)という映画を「狂気」呼ばわりするにはかなりの無理がある。

 

まず、退屈になりがちなライブ・シーンにアクセントをつけるためとはいえ、ブラスの音に合わせてショットがリズミカルに切り替わる稚拙な編集を見て、いったい人はどんな「狂気」をそこに感じればよいのだろうか。あるいは、マジでヤバい教官だと予告で煽りに煽っておきながら、実際には体罰と差別的な罵倒という極めて古典的なスパルタに留まる教官の男を見て、そこにいかなる「狂気」をも見いだせないことにどうして苛立たずにはいられようか。また、不自然なまでにきれいに並べられたスティックをサクッとアップで映し(一応、気を引く構図にはなっている)、それを主人公が手に取っていく短いショットがあるのだが、突如として披露される監督の映画的なフェティシズムと思われるこうした遊び心に、しかし、ウェス・アンダーソンエドガー・ライトほどの個性がただの少しも感じられないことに人は驚くわけだが、だとすれば、この謎のフェティシズムを羞恥心なく披露する監督の大胆さを「狂気」と呼べばよいのだろうか。

 

つっても、こんな作業をいつまでも続けていても始まらない。以下、物語論的な観点から、気になった点をいくつか「素朴に」列挙する。なお、超炎上したらしい菊地・町山論争は通読したが、そのいずれをも意識的には継承していないことを申し添えておく。見終わった直後の「面白いとは思ったが、それ以上にモヤモヤした」という直感を信じ、その根拠を自分なりに明らかにするメモのようなものだ。「こいつ、暇やな~」程度に思っていただければ幸いである。

 

(以下「です・ます」調でお送りいたします。)

 

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1=鬼教官の「鬼度」が割と普通(ネタバレ)

これはけっこう、ブログとかで散見されている意見でもありますが、ハラスメントを肯定する意図などまったくなしに、事実の指摘として、「このくらいの人は中学・高校の運動部ではザラにいる」ということが言えると思います。学校という特殊な環境が成立させる特殊な権力。もちろん、異常だとは思いますよ。でも、部活動とか、大学の専攻とかになると「自分が望んでここに来ているんだ」という自己合理化が働くので、「この人についていけない俺は劣った人間なのだ」となりがちです。それが再帰的に教官の権力を補強します。したがって、露悪的に言うなら、「わざわざ映画の売りにするほどかなー」というのはあると思います。むしろ、「イスをぶつけられないだけラッキーだな~こいつ」とか、「先輩からのイジメがないだけマシなのでは」なんて最悪のツッコミすら出てきそうというか。

(地元紙のスポーツ面でも、ある部活動で、監督と先輩の暴力で再起不能になった選手の保護者が学校と監督を訴えて・・・みたいな話は昨年あたりにもありました。最悪なニュースです。) 

 

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2=ブランクはどのように克服されたのか(ネタバレ)

 メモを取りながら映画を見ているわけではないので的外れな指摘かもしれませんが、主人公の男が退学処分になってから、それなりの期間がブランクになっている筈であり、その間、ドラムを未練がましく叩いている姿など映されていませんよね。ドラム・セットも押し入れにしまってあるわけだし。そんな男が、たった二週間の調整期間で感覚を取り戻し、ライブで自己最高のパフォーマンスを発揮できるものなのでしょうか。松本大洋のスポ根漫画に『ピンポン』という作品がありますが、あるいは『スラムダンク』とかでもいいんですけど、一度辞めた人間が「やっぱりもう一度やりたい」と思った後こそが本当の地獄なんじゃないかなー。スポーツと音楽は違うのかもしれないけど、この映像作品が単なる情緒的なアトラクションではなく、一介のドラマ映画なのだとすれば、そこのプロセスを省いたのは明らかに失敗だと思います。

 

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3=あの教官は結局のところ何者だったのか(超絶ネタバレ)

 前半は、上記「1」のことを踏まえても、まあ、よくありそうなスポ根ものとして見ていられましたし、教官本人がしみったれたジャズ・バーで自分語りしているように、「結局は生徒のことを思って追い込んでいるんだろうなー」と思えたわけですが、後半はまったく文脈が違います。「すでにドラムと縁を切った元・教え子に『やっぱりお前は才能がある』とわざわざ気を持たせてバンド・メンバーに勧誘するが、実はそれが、ジャズの世界から改めて永久追放するための陰謀だった、そのためにはもう一度ステージに立たせる必要があった」なんていうのはもう、映画としては起きてはならない「下限」をはるかに下回った観客への映画的なハラスメントだし、しかもそれが、自分が仕事を失ったことへの腹いせなわけですから、物語的にも状況的にも「愛あるスパルタ」とかとは、もはや何の関係もない。これを「狂気」と呼ぶことの狂気をむしろ恐ろしく思います。単に「性格が超絶悪い」だけですからね。

 

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4=この映画に感動したという人は何に感動したのか(超絶ネタバレ)

 以上を総合すると、あえて意地悪に言えばですが、この映画では誰も成長などしていません。根性論の肯定としても成立していないと思います。「いやだからそれが狙いなんだよ!」と言われても、世間で言う「最後にすべてが昇華される映画的なカタルシスが!」なんてのも、かなり眉唾と言わざるを得ない。教官が狂気の鬼コーチでも何でもない、ただの性格の悪いおっさんになるのは上記「3」のとおりだし、主人公が多少のブランクをものともせず、2週間あれば最盛期以上の状態に復帰できるという、いわゆるチート設定だったことは上記「2」のとおりです。

フィクションですから、基本「なんでもアリ」だとは思うのですが、物語的な流れを映像として提示されるがままにたどっていると、最後の9分は、普通に考えれば「たまたまうまくいったマグレ」の演奏でしかないのだろうし、主人公の男が突然ドラムを叩きだす瞬間になんとなく盛り上がった気がするのは、「さあさあ反撃の時間だぜ!」というそれまでのストーリーを踏まえた盛り上がりと言うよりは、「なりふり構わぬイジメに対する即応的な切り返しの面白さ」なのではないか。ここが曖昧のまま、つまり再起に向けて主人公がどんな準備をしたのかということが語られぬまま、映画はしかし周到に、なんとなく「今までの努力の成果をぶつけてやるぜ!」というカタルシスを見ている人が感じるように設計されている。これはけっこう、「あんたもワルよのお」的な感じで受け取ってしまいました。

そんなわけで、「音楽しかないこの孤独な俺」と「人の心を失ってしまったが音楽だけには反応できる、ある意味では純粋な教官」の間で何かが了解されようと、そこで知らぬうちに涙が流れてしまったり、思わず腹を抱えて笑ったり、どうしようもなく鳥肌が立ったり、そういう反応が出なかったんだろうなと。

 

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5=ライトニング・ボルトのようなバンドを組むという道もある

 恥ずかしながら、ジャズという音楽のことをよく知らないのですが、その薄い認識からすると、僕がイメージしているジャズという音楽と、この映画で主人公が目指しているジャズという音楽はかなり違いました。なので、ここまで来たら思い切って、ライトニング・ボルトのようなバンドを組むという方向に持っていくのもアリだったのではないかと思えてなりません。退学になるところまでは一緒でいいとして、例えば、青年が何かの間違いで権威主義から離れた場所にあるインディーズ音楽に出会う、思い思いにドラムを叩く人たちを見て「もう一度ドラムが叩きたいな」と思う、そこで自分の新しい世界を獲得して人間としても成長していく、そういう道もあったのではないかと。そこで、たまたま見に来ていた元教官が承認してくれる、そういうシンプルな話でもよかったのでは、と。

 

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というわけで、やはり、この『セッション』という映画は、荒唐無稽なアトラクション映画として楽しむべき作品だろうなと。だって、どれほど大胆な(世間で言う「狂気的な」)態度を装っても、これって、結局は「相手はもはや、指導の域を超えた単なる性格最悪なだけのいやがらせ野郎に成り下がったけど、俺はあくまで音楽の力だけで対抗したぜ!」っていう、すごく良い話なんですよね。だったら、そこを正面から詰めればいいのになあと思いました。最後は詰めが甘いまま、勢いが先走っていると思います。

 

 

≪Trailer≫