饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

是枝裕和監督『海よりもまだ深く』

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『海よりもまだ深く』(After the Storm, 2016)是枝裕和

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 凍らせたカルピス、凍らせたカレー、乾麺、あるいは墨といった、「温めるなり、とかす(融かす/溶かす)なりしなければ使いようのないもの」が、日常生活の中で度々登場する。その演出意図はおそらく平易で、凍ってしまったものを融かす、ようにして、三代にまたがる親と子、あるいは夫と別れた妻とのあいだに生じ、曖昧なまま放置されていたわだかまりが少しずつほぐれていく、ということなのだろう。優等生的でありながらもまったく嫌味に感じさせることがない、是枝監督のそうした丁寧な演出は、本作『海よりもまだ深く』においてもいかんなく発揮されている。

 実際、グラスに注がれたままの姿で凍らされ、冷凍庫で夏の訪れを待っていたカルピスは、「必要以上に」硬く凝固してしまった状態でまずは登場し、実家に戻れぬほどの放蕩息子ではないが、かと言って決して歓迎されてもいない良多(阿部寛)と母親(樹木希林)との距離感を過不足なく演出している。さすがに切り出しにくいなあ、と話のタイミングを窺う良多と、あんたのことだから、何か言いにくい話があるだろうねえ、とそれを察しつつも迂回する母親。一見、親子のこころ温まる逸話に思えるそのシークエンスにおいても、カルピスだけがその凝固を堅持しており、曖昧な心理的融解に無言で逆らっているかのようだ。

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 とは言え、そうした演出の丁寧さや、主題論的な豊かさだけを称揚して終わりにしていい映画でもない、というのが正直なところである。人気の若手女優をズラリと並べて見せた『海街diary』の次の一手、という意味ではその地味さゆえにまずは好印象、というところだが、一方では、上記のような演出意図の把握と言うのは、丁寧さの産物というより「丁寧さを装った誘導尋問」のように感じられる人もいるだろうし、というか、そう感じてしまう人を一定数抱えているのが是枝裕和という作家である、という程度の自覚は是枝監督その人にも絶対あるはずで、それを失ってもなお得たいものがあったのだとすれば、本作のたどり着いた場所はどっちつかずとも言えるかもしれない。

 あるいは、フィックスが多用されたカメラの動き(というか、動かなさ)や、居間における人物の配置や視線の方向、そしてそれを切り取る画面の構図にしても、いささか野心を欠いた伝統重視の安定路線(=シネフィル的なお作法)だという批判も完全には避けられないだろう。また、多くは樹木希林の演ずる母親が口にすることになるパンチライン級の台詞の量については、これくらいならば自分は許容できるのだが、本作ではむしろセルフ・ツッコミ的な「茶化し」が氾濫しており、いいお話過ぎるのを回避するための予防線という意味で用意されたのであろうそのシニカルなノリが、かえってその背後にある「照れ」をメタレベルで強化してしまっており、最後まで気になってしまった。 

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 もちろん、本作における「融解」は常に多義的でもある。凍ってしまったものを融かす、だけならいいのだが、それは同時に、「一度はしっかりと固まったものが、崩れてしまう」ことをも意味するからだ。カルピスにしても、カレーにしても、長期保存や清涼性といった実用の観点からすれば、むしろ凍った姿こそが完成形なのであり、それを解凍してしまうことは、曲がりなりにも完成したものを再び壊してしまうことにもなるのである。そして、原子の配列というレベルまで突き詰めて言えば、「やっぱり、もう一度凍らせたい」と思ったところで、それは二度と同じ姿で凝固することはないのだ。

 つまり、帰るべき場所ではない場所に帰り、凍らせ過ぎたカルピスをスプーンで強引に削って食べようとしたり、いつ凍らせたのかすら定かでないカレーに乾麺のうどんを馴染ませて食べようとする彼ら「元・家族」たちは、互いの関係性をもみほぐし、融かしていると同時に、その関係性を二度と戻ることのできない変化へと押しやってもいるのである。その一回性と、不可逆性。でも、それって、人生みたいじゃないか。ということに最後まで気付かない(最後の最後でようやく受け入れる)のは良多ただ一人であり、冷凍保存したつもりでいた彼の人生に残されたわだかまりは、それが融解していくあいだの束の間の甘美さと引き換えに、後戻りできない地点をゆっくりと通過していくのだった。

 

 繰り返して言えば、人生は冷凍保存などできないのであって、本当のことを言えば、カルピスは凍ってなどおらず実はグズグズだったのであり、冷凍に失敗したカレーは明らかな腐臭を放っていたのだ。「家族」という、誰しもが持ち、死別をもってしてもなお逃れることのできないつながりを題材に選び、時に特権的ですらある設定を介してそれを主題化/中心化してきた是枝監督は、ここではむしろそれを周縁化しようとしているかに見える。つまり、血がつながっていようと、一度は永遠の愛を誓った間柄であろうと、僕たちは所詮、離ればなれなのであり、異なる時間を生きる他人同士なのだということ。『海よりもまだ深く』はそう優しく囁いている。