饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

是枝裕和監督『海街diary』

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海街diary』(Our Little Sister, 2015) 是枝裕和

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 ある男の「不在」を共有することで立ち上がる物語であるにも関わらず、是枝裕和の新作『海街diary』において、その男のかつての姿を写真で確かめようとする者は誰一人としていない(唯一、父の記憶をほとんど持たない三女だけが、そうした行為を過去にしたことがあると証言しはするのだが、それもさほど効力を持つものではないらしい)。もちろん、『ワンダフルライフ』(1999)のようないささか突飛な設定を含む作品においてさえ、フィクションの世界でも生真面目なリアリズムの描写に徹してきた是枝映画にあって、本作に限って、写真やカメラという文明が存在しないSF的設定などが採用されている筈もない(冒頭、ヒモのような甘やかし方をしている恋人の隣で眠る次女(長澤まさみ)を起こすのは、メールの着信を知らせるスマートフォンバイブレーションだ。この物語の世界でもカメラや写真といった文明はありふれているかに見える)。

 しかし、例えば、父の葬儀の帰り道、父の持ち物に含まれていたらしい何枚かの古い写真を出会ったばかりの四女(広瀬すず)から手渡された3人の姉たちは、その束を一緒にめくるものの――そのうちの一枚くらいは父なり母なりが写っていてもよさそうなのだが――単に自分たちの幼い頃の姿をひやかし合うに過ぎないのだ。あるいは、三女(夏帆)の恋人なのか最後まで明らかにならない熊のような男(三女が勤務するスポーツ用品店の店長)が、女たち全員を前に、自分がかつて活発な登山家であり、不運にもエベレストで遭難し、足の指を6本失くしたというエピソードを披露し、その足を見るか、なんなら写真に撮ってもよいとおどけてみせるシーンがあるのだが、まるでそれが禁じられた行為でもあるかのようにして、女たち全員が気まずそうに口をつぐみ、長女(綾瀬はるか)が4人を代表してそれを拒んだりする。

 

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 では、写真とはなんであったか。なぜ、『海街diary』において、写真はこのような扱いを受けているのだろうか。

 手がかりとしてロラン・バルトの古典『明るい部屋』を思い起こすのであれば、一義的には、写真が伝えるのは「それ(被写体)はかつて(そこに)あった」という手に負えないほどの《事実性》であった(実存的な写真)。そして、こちらがより重要かつ稀少なのだが、「(被写体が現実に漂わせていた雰囲気とは)これだ!」「このとおり、そう、このとおり、まさにこのとおり!」という《真実性》を、極めて小さな確率で、(おそらくは特定の人間関係を有していた者にだけ)伝えることができるのだという(本質的な写真)。後者の《真実性》に関しては、バルト自身が認めるように、ガチガチに理論化された言説ではない。しかし、《事実性》と《真実性》ということで言えば、かのロベール・ブレッソンまでもが(『シネマトグラフ覚書』において)こんな非・理論的なことを書いている――「生(き)のままの現実は、ただそれだけでは真なるものを提示はしまい」。

 是枝裕和が鎌倉に集めた4人の女たち(と、その周囲に親密に形成される小さな人間関係)は、バルトやブレッソンの非・理論をそうとは知らずに実践する(というか、それが実践されているからこそ維持可能な)共同体である。彼女たちにとって、戸籍や血縁、写真といった《事実的なもの》はさして重要ではないのだ。実際、父の3人目の妻(4人の誰から見ても他人)のもとで義弟と暮らす四女を、山形から鎌倉へ越すように誘う3人の素振りは、さながら友人をお茶か映画にでも誘うような軽さであり、またそれがどのようにして実現したのかは語られない。女たちは《事実的なもの》が築き上げる壁を、さも何でもないかのように軽々と飛び越えてしまう(とは言え、四女の耳の形や基本的な人間性が長女と似ていたり、酔った時の乱れっぷりが次女顔負けのものであったり、食べ物の好みが三女と近かったり、そうした《事実的なもの》を発見したときの姉たちの照れた喜びの表情は悪くないのだが)。

 

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 では、この映画において非・理論的に作用する《真実的なもの》とは何か。それは「記憶」である。

 例えば、食べ物のレシピに宿る記憶、人の残した言葉に宿る記憶、もしくは、ある風景に宿る記憶が、映画のすぐ横を静かに通り過ぎてゆくのだが、それに手を伸ばそうとした者の手と手がふと触れ合う時、《真実的なもの》が静かにグルーヴし始める。何かを食べ、誰かの話を聞き、どこかの風景を眺めて、「これだ、そう、これだ、まさにこれだ!」と記憶を非・理論的に確信し、誰かと共有すること。そして、その記憶の連なりから立ち上がる知られざる人間関係(ここでは、父のかつての友好関係など)を想像すること。

 あるいは、自分もその一部にすでに加わっているのだということを知ること。言ってみれば戸籍上の、あるいは生物学上の共通の父を持つ、ということに「過ぎない」この不確かな4人組は、それらの記憶を共有することによって(周囲の人を巻き込みながら)徐々に結ばれていく。逆に、記憶の宿る買い物(箸!)を長女に拒まれたある男は、間もなくこの関係性からはじかれてしまうし、記憶の象徴(家!)を処分しようとする3人の実の母親も、素早い退場を迫られる。《事実的なもの》が担保する制度としての「家族」ではなく、《真実的なもの》が非・理論的に形成する「共同体」へ。是枝映画はここでひとつの結論へと達しているかに見える。 

 また、これはささやかな贈り物に過ぎないのだが、自転車の滑走シーンに宿るトリュフォーの記憶や、意味もなく長女を鐘の音で振り向かせてみるシーンや、長女と母親に傘を持たせてみたりするシーンや、映画の大半の時間を占める縁側や食卓(ちゃぶ台)でのシーンに宿る小津・成瀬の記憶は言うに及ばず、これまでの是枝映画そのもの(例えば、階段の拭き掃除をする長女の姿は1995年の『幻の光』で既に見ているし、「死を目前に何を思い出すか」という問いは1999年の『ワンダフルライフ』の主題そのものであるし、「こども達だけで形成される家族」という題材は2004年の『誰も知らない』と年齢的な相似を成しているし、3世代にまたがる家族・親族・共同体の関係性は2008年の『歩いても 歩いても』でさりげなく準備されていたし、四女が転校先で形成する4人組は前田旺志郎の姿とともに2011年の『奇跡』を思い出させ、「血か記憶か」という対比は2013年の『そして父になる』においていささか極端な二択で問われていたし、そもそも親の違う姉妹を扱う物語は、漫画の映画化と言うよりは成瀬の『稲妻』の意識的な再現でもある)を含む「映画」に宿る記憶を通じて――たとえ原作漫画という記憶を持ち合わせない筆者のような人間であろうと――観客はスクリーン上に形成される共同体の一部へと心地よく溶け込んでゆくだろう。

 

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 これから新たな「記憶」となっていくのであろう、数々の甘美な風景や食べ物(桜のトンネル、海の上での打ち上げ花火、4人で歩く砂浜、シラスのサンド、梅酒、アジフライなど)の前をカメラは通過し、また、お近づきの印として、3人の姉たちが四女へそれぞれに持ちかける小さな秘密(山の頂上からの絶叫、小指だけのマニキュア、ちくわカレーなど)をカメラは見守ってゆくのだが、是枝裕和その人も、それらを決して「風景《写真》的な美しさ」ではカメラに収めていないし、物語の側にあっても、そこでスマホを取り出し、記憶を写真に留めようとする者など誰一人としていないのは言うまでもない。

 直近では、例えばグザヴィエ・ドランの『マミー』では、共同体の記録・確認のためにスマホによる「自撮り」がさっそく導入されていたことを考えれば、本作の打ち出す映画的な思想は明確である。(なお、物語のなかで唯一、幾度となく突っかかり合う長女と次女が一枚の写真で盛り上がるシーンがあるのだが、それはまさにバルトが母親の写真のうちのたった一枚に反応したように、思わず「これだ!」となってしまう《真実の写真》だったに違いないのだが、その写真が誰のものであるかは触れずにおこう。)

 重要なのは、姉妹を含む町の住民たちが、必ずしも共通の目的を持っているわけではないということだ。途中、町のランドマーク的な食堂を保存するための「行政的な/良識的な」運動が始まるのかとひやひやした人は筆者だけではあるまいが、しかしそれは杞憂に終わり、曖昧な記憶を頼りに結ばれた住民たちは、控えめなアイコンタクトでその秘密の共有をささやかに確かめ合うに過ぎない。無方向で、無目的な連帯の中をなんとなく生きるということ。それが、最後のシークエンスで、「風景《写真》的な美しさ」からはかけ離れた曇り空の下、女たちが波打ち際を「同じ方向で」ゆっくりと歩いていく姿へと静かに反転するとき、人は小沢健二の「天使たちのシーン」を思い出しながら、これは人生についての映画なのだと子どものような感動に浸るほかない。