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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ウディ・アレン監督『カイロの紫のバラ』

ウディ・アレン 1980s ★★★★

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カイロの紫のバラ』(The Purple Rose of Cairo, 1985) ウディ・アレン

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 映画館の前で、新作のポスターに見入る女。その素晴らしい、抑制されつつもどこか物欲しげな表情を捉える数秒のショットで映画は幕を開ける。人は誰だって、こんな表情で映画の素肌を見つめてみたいと願っているのだろう。だが、同時に、そんなものがもはや、おとぎ話の中でしか成り立たないような表情だということもわれわれは知っている。そう、ウディ・アレン、全盛期の佳作として名高い『カイロの紫のバラ』は、幻のバラの輝きによってではなく、映画を見つめる女の幻の表情によって豊かに彩られているのだ。

 

 この数秒のショットだけでも十分に4つ星の評価にふさわしい映画である。ミア・ファローは、夢見がちなロマンティック・ガールを完璧に演じている(名演!)。できることであれば、ここで映画が終われば良いのにとさえ思うほどだ。しかし、映画館の看板を取り換えていた技師が起こす大きな物音によってこの夢のような時間は遮られ、われわれは彼女が映画館を出た後にどのような現実へ帰らねばならないのかを知る。慢性的な不景気、夫の酒癖の悪さ、パート先のうるさい店長といった、タフな(だが、同時に死にたくなるほどありきたりな)日々を必死に生き、あとは決まりきった手順で人生をなんとかやり過ごす。どうやらそれだけが彼女に残された人生のステップであるかに見える。

 

 ウディ・アレンは、しかし、どこにも救いがないように見えるこの「スモール・タウンもの」の佳作を、笑いで救おうとはしない。彼はフィクションの力と自由度にほぼすべてを賭けているのだ。実際、気付けばスクリーンのあちら側とこちら側の世界を分かつ境界は消失し、彼女は映画の世界から文字通り「逃げ出した」映画スターと幻の恋に落ちるのだった(そして、「映画内映画」という素朴なメタ構造を持ったこの映画の中からは、ミア・ファローがわれわれの隣に飛び出してくるという仕掛けである)。

 

 いかにも映画らしい、こうした荒唐無稽なファンタジーの中で、彼女を救うのが映画ならば、彼女を傷つけるのもまた映画である。映画を愛する人間であれば、こんな世界など今に捨ててやると誰しもが願っているし、それができないこともよく知っている。だが、何かの映画でそんなシーンを見たのだろうか、行くあてなどどこにもないのに、彼女は現実の生活を捨てるべくバックに荷物を積め始める。そう、彼女にとっては「今日がその日」なのだ。彼女の表情に宿る一喜一憂が何とも切なく、泣かせる。映画がどのように終わるかはおそらく、大方の予想通りであろうが、あえては触れずにおこう。

 

 ただ、最後に彼女が宿す表情だけは、フェデリコ・フェリーニの傑作『カビリアの夜』(Nights of Cabiria, 1957)のラストに匹敵するものだったことは、控えめにでも強調しておきたい。

 

《Trailer》