饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

北野武監督『龍三と七人の子分たち』

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『龍三と七人の子分たち』(2015) 北野武

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それが何かの役に立てば「個性」と呼ばれ、何の役にも立たぬどころかやがて世間様に害を及ぼすようになれば「老害」と呼ばれるであろう、個に属する一定の傾向のようなもの。任侠映画の、北野映画の、あるいは超高齢化社会たる現代日本をめぐる様々な「個性」なり「老害」を風刺を気取らぬ笑いに転じさせながら、『龍三と七人の子分たち』は極めて穏当なコメディ映画に仕上がっている。

 

周知のように、『龍三と七人の子分たち』で詐欺グループ「京浜連合」を討伐すべく立ち上がる男たち、もといジジイたちは、はるか昔に現役を退いた元ヤクザの集まりである。彼らには早撃ちのマック、ステッキのイチゾウ、カミソリのタカなどといった勇ましい「武勇伝」なり「通り名」があり、それぞれに親分をサポートするための「特技」なり「個性」を持っている。一方、詐欺グループ「京浜連合」を形成する20~40代と思しき男たちは、詐欺という犯罪の性質から来る要請でもあるが、小奇麗なスーツを着こなし、無個性なサラリーマンに擬態するための記号を与えられている。

 

ここには一応、「個性的な高齢者」vs「無個性な若者」のような対立軸が用意されてはいるが、当然、そのような非対称性を素朴に打ち出してしまうことこそが「無個性」であるというメタ意識や羞恥心を持ち得る筈である北野武という監督は、「個性的な高齢者」たちを決して称揚してはいない。

 

実際、個性的である筈のジジイたちは、息子夫婦がローンを払った家で露骨にウザがられていたり、老朽化の進んだ公営団地の一角で生活保護を受給しながら一人暮らしをしていたり、グループホームやお看取り病院のベッドで「無個性な老後」を細々と生きる、現代日本を表象するための記号的な存在に過ぎない。つまり、『龍三と七人の子分たち』においては、「個性」という概念そのものが年老いた過去の産物なのである。

 

もちろん、「かつては個性的だった武勇伝持ちのジジイが無個性な老後を送っている」という人物設定そのものが無個性である、というさらにメタレベルからの指摘も(以降、原理的には無限に)可能ではあるが、そこをグッとこらえ、ジジイたちを物語のオブジェクト・レベルで一旦は引き受けることによって、『龍三と七人の子分たち』の悪ふざけはある種の素朴さの中で展開されている。なぜだろうか? 現代のヤクザを扱いつつも題材は微妙に異なるのだが、さらにメタレベルに発展した例では、園子温監督の『地獄でなぜ悪い』(2013)などがあるだろうが、そこにクエンティン・タランティーノ的なメタ性の限界が露呈してもいたこととも無関係ではあるまい。

 

そう、任侠映画的な様式の限界を暴いた自ら深作欣二の『仁義の墓場』(1975)への劇中での言及――ちなみにこの映画は園子温監督のオールタイム・ベストの一つでもあるのだが――を映画的なエクスキューズとしながら、『龍三と七人の子分たち』は、物語的には任侠映画の様式を反復するに止まっている。あるいは、意識的に。実際、龍三(藤竜也)が組織するグループホーム的な「一龍会」と西(安田顕)が組織する「京浜連合」との対決は、それぞれに現代日本的な記号を背負いながらも(ネタ的にせよメタ的にせよ)「小さないざこざ」→「中くらいの犠牲」→「大きな抗争(主人公側の殴り込み)」という様式をなぞっているのだ。(ちなみに、任侠映画における「殴り込み」の美しさを知りたければ、『緋牡丹博徒』シリーズの中で加藤泰監が督作した作品群、個人的には『緋牡丹博徒 花札勝負』(1969)などを推しておこう。)

 

オフィス北野はおそらく、アジア圏からジャ・ジャンクーを輩出することで映画という文化に対する一定の役割を終えたのだろうから、90年代の北野作品が纏っていたあの殺人的な空気、テンションがここにないことを嘆くのは野暮だろう。

 

一方で目につくのは、居酒屋で過去の殺人歴などを点数化して親分を決めるシーンの、ジジイたちの顔を正対して人物紹介的に連写し、それをジジイたちの囲む輪の中心から見てぐるりと回転するカメラ・ワークにつなげる編集のリズム感など、技巧的な部分でもある。とは言え、任侠映画に対する個人的なB級趣味もあり、また、映画は単純に面白いにこしたことはないので、「余生」の作品として見るならばこれはこれで完成だろうともっともらしく納得して見せることですら不可能ではない。『龍三と七人の子分たち』は面白い映画なのだ、あくまでもお笑いとして、かもしれないが。

 

唯一、この映画の題材に見合った「個性」を探すのであれば、モキチ(中尾彬)を殺られたことで殴り込みのお膳立てが整い、誰しもが「よーし、やれ、やってまえ!」と応援し始め、とにかく派手にやってくれ、この際ならばタランティーノ的な「明るい殺戮」だろうと何であろうと構わない、と期待するであろう終盤の山場が、しかし、脱力的なボケによって笑いの戦場と化し、ジジイたちの「中折れ」感を演出するかのごとく、周到にカタルシスを回避している点であろうか。新作レンタルでこれから見るという人も多いであろうから詳しいことは書かないが、とある車両を使用してジジイたちが見せる炎の追跡劇の果てで、龍三は最大の標的に自ら手を下すことができないのだ。

 

この仕打ちや追走劇のスケール感のなさすらをも「中折れ任侠映画」としての演出として受け止めるべきなのだろうかとしばし迷っていると、北野武の演ずるバッド・ルーテナントが例のごとく「バカヤロー」と言ってすべてにケジメをつけてしまう。なんて安易なんだ、これではあまりに記号的だ、90年代にアウトロー映画の備えるべき「空気」を刷新した男がなんてザマだ、俺が見たかったのはこんな「お約束」としての個性ではなくあの「空気」としての個性なのだと思いつつ、しかし、それまで「かつて個性的だったのであろう老害役人」を無個性に演じていたかに見えたこの男の存在感に触れたことで、ようやく北野映画を観たぞという満足感が訪れ、思わずホッとしてしまったことは素直に告白しておきたい。これはこれで、やはり悪くはないのだ。

 

 

≪Trailer≫