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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

レニー・アブラハムソン監督『ルーム』

レニー・アブラハムソン 2015-2019 ★★★1/2

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『ルーム』(Room, 2015)レニー・アブラハムソン 

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 冒頭、被写体との距離が近すぎるのだろう、まるでピントの合っていないショットが無造作に連ねられる。モノは確かにそこにあるのに、近すぎて逆に見えない。そう、それこそが、生まれてからの5年間、「部屋」から出たことがない少年と「世界」との距離、あるいは関係性におけるすべてだ。少年にとっての「世界」は、数歩あるけば壁にぶつかってしまう程度の広さしかないその部屋の中に圧縮されている。そして、それが圧縮された「世界」であることを少年は知らないのだ。「世界」のすべてはそこにあるのに、同時に何もない。「部屋」はまず、「世界」の代用品としてそこにある。

 とは言え、その「部屋=世界」は、必ずしも希望の潰えた墓場として描かれてはいない。7年に及ぶ誘拐監禁事件の「現場」であるにもかかわらず、だ。それはこの『ルーム』という映画が、基本的には子供の視点から撮られた作品だからである。より正確に言えば、「子供の視点とはこういうものだろう」という大人の希望的解釈に基づき撮られた作品だからである。実際、基本的人権などゴミ同然に踏みにじられたその部屋、その日々にも、たとえ一瞬ではあろうと美しい時間、幸せと呼ぶに値する時間があったのでは、という希望の眼差しが説得力を持ち得るのは、ひとえに「ボク」が「世界」との距離を持っていないからであり、またそのように大人が(=製作側が)「ボク」に期待しているからである。

 それが最高点に達するのは、言うまでもなく「脱出」の瞬間である。ある作戦を立てた母親の指示に従い、外部へのSOSを発しに決死の脱出劇を演じた子供がはじめて仰ぎ見る「世界」。カメラは子供との距離も、また観客との距離もいっぺんに失い、まさに混然一体、主体も明らかではない単一の視点となって、ただ「世界」を映し出す。監禁事件の真っただ中「なのに」という逆説もなく、あるいは監禁事件からの脱出という悲劇の転換点「だから」という順接もなく、ただ「世界」はそこにある。製作側のそうした演出意図は、少なくとも半分は成功しており、子供との距離を奪われた観客は、しばしその「世界」の姿に見入ることになる。いや、こう言ってよければ、世界「になる」のである。

 

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 しかし、これらのごく素朴にして好意的な解釈は、「ボク」が「世界」との距離を持たずに純粋でいられる、という前提に立つからこそ生じるのであり、われわれが子供の認識そのもので「世界」を覚知することはできないことには留意すべきだろう。もちろん、この少年のように振る舞う子供がいたとしてもまったく不自然ではないし、「こういう子供がいるのだ」と言われれば基本的には「こういう子供もいるのだろう」と追認するほかない。が、無邪気に遊び回る子供の姿に甘い菓子のような音楽が合わさるとき、やはりそこにはある種の過剰さを感じずにはいられない。先ほど「逆説も順接もなく、ただそこにある世界」と書いたのは大嘘で、「それでも、世界は無慈悲に美しいのだ」という逆説の演出に全体が傾いているように思えてならないのだ。

 いや、それは悪意的なミスリードだろうと、あなたは言うだろう。確かに、ここでの子供の純粋さは一見、両義的である。キラキラの音楽と激しく揺れる躍動的なカメラワークで幾度となく――あるいは過剰に――演出される、「世界」との距離を持たないからこその子供の純粋さが、同時に残酷さとなって母を苛立たせもする点は、いかにももっともらしい。特に「脱出」以降、「世界」との距離を見出せずにいる母が、彼女を置き去りにするかのように「世界」に適応していく子供に嫉妬し、苛立つ様子は極めてリアルだ。特に、テレビと現実の区別も付かなかった筈の子供が、暇を持て余した現代っ子そのものの姿でスマートフォンと戯れているのを見た時のヒステリーには、同情を禁じ得ない。

 であれば、それでいいではないかという話になる。リアリズムを文体に持つ、美しくも残酷な感動ドラマではないかと。感動――たしかに『ルーム』には感動がある。しかし、ではいったい人はこの映画の何に感動するのだろう、という疑問もある。前作にあたる『FRANK -フランク-』にも同様の傾向があったが、製作側が「描いたつもり」になっているものを、われわれは「観たつもり」になってはいまいか。この『ルーム』という映画には、「悲惨な事件の被害者となった母と子が、それでも世界と向かい合い、前に進もうとする姿」が描かれている、ように思える。作家はそれを「描いたつもり」になっており、われわれもそれを「観たつもり」になっている。しかし、画面に映るのは女優の頬を伝う涙ばかりで、いかなるドラマでもない。

 

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 いや、やはりお前のやっているのは悪意的なミスリードだと、それでもあなたは言うだろう。映画は「視る」ものだと。涙を「視」て何が悪いのだと。しかし、ジョン・カサヴェテスの映画を1本でも観たことのある人間であれば、『フェイシズ』でジーナ・ローランズの頬を伝う涙を視たことのある人間であれば、この『ルーム』における涙を涙とは呼べぬ筈である。何の意味もなく、何をも代弁せず、観客にいかなる解釈をも許す間もなく流れて消えるあの徒労こそを涙と呼び、その残酷さこそをドラマと呼ぶのだと。裏返して言えば、『ルーム』における音楽や、涙や、カメラの揺れなどによる数多の演出は、意味に満ち過ぎているのだ。それを「視る」ことは、すでに「読む」ことに近い。

 いわばそれは、謙虚さを装った貪欲さであり、いかに「悲惨な事件の被害者となった母と子が、それでも世界と向かい合い、前に進もうとする姿」が拙く描かれていたとしても、というか拙かろうとそれが提示されてしまっているがゆえに、観客は感傷的な音楽が流れていたり、女優が涙を流していれば、そのシーンには何かしら意味があるのだろうと、事後的にでも「乗って」しまう。また、映画も謙虚さを装いつつそれを強いている。それが『ルーム』である。子供や世界の純粋さを「残酷さ」として逆説的に――言うまでもなく、感動のためにだが――利用する演出上の計算こそあれ、すべての演出を何がしかの心理的意味と結びつけてしまうことの狭量さは、映画を「演出」と「シナリオ」で作ろうという者の限界を「残酷に」露呈している。

 レニー・アブラハムソンは、間違いなくこれからさらに売れていく作家だろう。本稿の評価は、おそらく多くの「映画好き」たちにとって不当なものと見えるに違いない。だが、映画の「残酷さ」に手を伸ばそうともせず、演出の技巧だけでもっともらしく涙を要求する映画を前に、それを映画と呼ぶのを躊躇ってみせるくらいのことはいささかも残酷ではない。