饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

園子温監督『リアル鬼ごっこ』

f:id:cinemaguide:20151204230143j:plain

リアル鬼ごっこ』(2015) 園子温

f:id:cinemaguide:20151204230323p:plain

 

「ディスったら負け」みたいな映画がある。その線引きは、ライターや批評家の自意識の問題、ではなく、「作家が織り込み済みでやっていることを、作品の醜悪な点として指摘してしまうことの批評的無意味さ」で規定される。だから、現在の園子温監督――何年か前、地元の講演会に来た時に「漫画原作モノはやらない、やるなら手塚治虫先生の作品以外に興味はない」という趣旨のことを公言していたにも関わらず、節操なく漫画原作モノを撮りまくっている男――を、その同情を誘うほどの堕落ぶりでもってわざわざ批判することは「負け」だろうし、この『リアル鬼ごっこ』という映画を、園監督の自家中毒とみなして批判することもまた「負け」であろう。

 

では、園監督の意図を然るべく察して――最悪の場合、インタビュー記事などを鵜呑みにして――この『リアル鬼ごっこ』という映画を「逆に」「あえて」褒めることが批評的に有意義なことかと言えば、もちろんそんなこともない。画面に映ったものがすべての映画において、そこに映っていないものを「解釈」の名のもとに論じてみたり、「作家の本当の意図」だの「シーンを俯瞰した上での戦略」だのを、見えたことにしてしまうこと以上に醜悪で、無意味なこともまたないからである。そういった当たり前の前提を確認せざるを得ないほど、釣り針が多く垂らされたこの『リアル鬼ごっこ』で「見える」ものとは、では、いったいどんなものだろうか。

 

***

 

ポイントを一点に収斂させるなら、それは「ドローン撮影」の完全導入、これに尽きるだろう。もっとも、個人的なことを言えば、この頃はガチなシネフィル勢からもひどく無視されている西部劇のクラシックスを、積もった埃を払っては凝視しているので、この作品でこれ見よがしに導入されているドローン撮影が同時代の映画でどれほど流行っているのか、あるいは、この技術が90年代以降のドキュメンタリー・タッチな手ブレ撮影の潮流に代わる「もっとも安易だがもっとも同時代的な感性に訴えることのできる」ものなのかまでは判断できない。

 

が、これはなかなか良い技術である。オールドスクールなシネフィル勢は批判に躍起になっている頃なのかもしれないが、映画が、バザンの言う「完全映画」に漸近していく宿命にあるのなら、映画作家の抑圧されていた未だ見ぬショットへの欲望が叶えられることを否定すべきではないように思う。最近見た作品の中で言えば、ジャスティン・ベンソンとアーロン・ムーアヘッドのダブル監督で撮られた『モンスター 変身する美女』でもドローン撮影による俯瞰ショットが効果的に挿入されていたのだが、空間をタテ・ヨコへと自由自在に・滑らかに移動していくカメラを見て、今の映画はこんなショットを撮れるのかと仰け反ってしまったほどだ。

 

園監督の『リアル鬼ごっこ』においては、まず、バスで遠足に出かける道中の女子高生を突如として真っ二つにする殺人的な「風」を、ドローン・カメラが捉える映像の「主体」とすることで、ドローン撮影が原理的に抱える――手ブレ感とは正反対な――無機質さを、むしろ有効な演出として取り入れることに成功しているのだ。バスの乗客の中で唯一生き残ったポエム好きのミツコ(トリンドル玲奈)を執拗に追い回す「風」は、ドローン撮影による自由で滑らかな空間移動でもって、その流体性を多少なりとも表現し得ているだろう。「風」の接近を感じて身を伏せたミツコの頭上をかすめていく映像の軌跡。これはそれなりの新鮮さをもってわれわれの目に「見える」ことだろう。

 

また、どうにか「風」から逃げたぞと安心したミツコが、何の前触れもなく迷い込んだ「可能世界」において、こちらの世界ではどうやら自分と親友らしいアキ(桜井ユキ)らとともに校舎を抜け出し、森を目指して疾走していく――園映画ではもはや見飽きたような――姿は、校舎の玄関を飛び出す4人組の姿を正面から捉えた直後、滑らかに・急速に、後方へと高度を上げながらフェードアウトしていき、その数秒後には遥か彼方からの俯瞰ショットへの移行を完了するあたり、なかなかよく練られたショットだと見入ってしまった。とは言え、こうした俯瞰ショットは何度も執拗に挿入されるが、評価すべき新鮮さで画面を活気づけるのは、この校舎から森への疾走シーンただ一度きりである。

 

***

 

しかし、この他には驚くほど見どころのない映画であることもまた隠しようのない事実である。実際、「可能世界」におけるミツコの別人格であるケイコ(篠田麻里子)やいずみ(真野恵里菜)の存在感のなさは悲しくなるほどだ。こんな脚では50メートルだってまともに走れやしない、と思わざるを得ない体つきを別とすれば、虐待される小動物のごときトリンドル玲奈は確かにハマってはいるが、おそらく、この映画/この設定だからこそ獲得し得た一回きりのハマリ役であろうし、深作欣二監督の『バトル・ロワイアル』における相馬光子(柴咲コウ)に対応するような役を与えられたジュン(高橋メアリージュン)にしても、登場時間が短すぎ、真価のほどは不明である。唯一の希望となっているのは、ほぼ無名の役者である桜井ユキであり、個人的には彼女の名前を憶えられたことだけに価値があった。

 

これではあまりにもフェアなレビューではない、という意見のために、この映画の「見えない」領域についての考察も――それほど刺激的な試みになるとは思えないが――加えておこう。まず、この映画を「震災以降」の文脈に位置付けることが可能である、というのは見過ごされがちな隠れた主題であろうか。それは、前半部分に顕著な、例えばバスの中で「たまたま屈んだが故に'風'の殺傷から免れた私」と、「たまたま通常の姿勢でバスの座席に着座していたが故に身体を真っ二つにされてしまったみんな」との対比には、震災後に多くの人が感じたであろう、東浩紀の言うあまりに「確率的になってしまった」われわれをめぐる存在論的な表現にも思えるからだ。

 

あるいは、後半以降におけるトリプル・ヒロインの起用と、彼女たちが「可能世界」を移動し続けるシナリオの展開には、「交換可能な私(たち)」という、自己の安定性や他者からの承認という領域で不安を抱え続けるわれわれに対するアイロニーを読み取ることもできるだろう。たまたま生きているに過ぎない「確率的な存在」であり、かつ、「誰とでも交換できてしまう存在」として、だから園映画においては、人々は多くの場面で走っているのだろう。物語の進行上、走る必然性のあった『愛のむきだし』はともかく、覚えている限りでは『ヒミズ』でも『地獄でなぜ悪い』でも『新宿スワン』でも、人はみな走っていたが、あれはおそらく、確率的で、交換可能な自己の存在からの逃走だったのだ。

 

そして、何の悪ふざけなのか、この『リアル鬼ごっこ』では、側道で応援する人びとの間を走っていく陸上部の「ランナー」が、トリプル・ヒロインのうちの一人なのである。これは明確に、アイロニーでありセルフ・パロディだろう。また、パロディ化されたヒロインは、最後にメタ・ゲーム上のプレイヤーとして「バグる」のだが、これが考察に値することか否かは、『PLANETS』周辺のゼロ年代批評にでも任せておこう。これまでの考察を踏まえればいささか説明過剰とも言えるが、『ヒミズ』における「頑張れ!」は、ここでは「シュールに負けるな!」に変換され、こだましている。この「シュールに負けるな!」をめぐる説明を、現状の10分の1ほどに削ればまた違った映画ができたかもしれないと、心から残念に思わぬこともないが、それを指摘してしまうことこそ、ここでは「負け」なのではないだろうか。 

 

≪公式サイト≫

 

≪Trailer≫