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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

リー・ダニエルズ監督『プレシャス』

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『プレシャス』(Precious: Based on the Novel "Push" By Sapphire, 2009)リー・ダニエルズ

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 貧困、家庭内暴力、近親相姦、性虐待、そして「望まぬ妊娠」――夢や妄想の中では既にビヨンセばりのスターとして歌手・女優業等で世界的な成功を収めている16歳の女の子、プレシャスの現実はかくも厳しい。

 

「女たちは、自分たちが抱えた問題についての映画をつくる必要はありません。なぜなら、女たちが抱えた問題というのは、どれもみな、男たちが引き起こした問題だからです」

 

と言ったのはゴダール(発言は『映画史』〔筑摩書房〕より引用)であるが、もちろん、事態はそれほど単純ではない。この発言は、「女たちが、男たちが引き起こした問題に対して自分たちがとろうとしている解決策についての」映画を撮ればよい、と続くのだが、それとていくらか事態を楽観視した発言に思える。なぜ、男たちに被せられた問題の解決策を、女たちが考えなければいけないのか? 普通に、みんなで考えるのではダメなのだろうか。

 

 実際、ジェイソン・ライトマン監督による青春ガールズ・ムービーの佳作『JUNO/ジュノ』のブラック・ムービー版とも言えるこの『プレシャス』を手掛けたのは、ゲイの黒人男性作家たるリー・ダニエルズ監督であるし(ただし原作は女性作家によるもの)、僕はそれを素晴らしいと思っている。「望まぬ妊娠」を筆頭に、それらは紛れもなく「男たちが引き起こした問題」であり、同時に、「男の引き起こした問題の被害者たる女が引き起こした問題」でもある。そこではもはや、性別による区分けは、敵・味方の区別を何ら保証するものではないし、被害者と加害者との立場も錯綜している(父だって、ここでは描かれぬ誰かの被害者かもしれないのだ)。

 

 貧困、暴力、貧困、暴力……そのただ中に置かれたプレシャスが求めるのは「少なくとも性器を押し付けて襲ってこない」存在であり、例えば呉美保監督が『そこのみにて光輝く』で描いたようなボーイ・ミーツ・ガールの救済ではない。

 

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 とにかく、ツラい。観方によっては倒錯した悲惨趣味にも思えるドキュメント性でもって、それらの底辺生活は強い筆圧で綴られる。レッドカーペットを歩いてファンにサインと笑顔を振りまくなどのショットが度々(鮮烈なカット・インで)挟まれるのだが、そうしたプレシャスの妄想は、あまりにもハードな現実からの作用に何とか抵抗するための、せめてもの反作用なのだろう。そうした意味では、この『プレシャス』という映画は、われわれにラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を思い出させずにはおかない。あるいは、あまりのストレスで現実を正視できなくなっているプレシャスの防衛本能を演出するかの如く、カメラが小刻みなズーム・イン/アウトを痙攣的に繰り返す時、われわれはどんな言葉だって持てやしないのだ。

 そんな彼女にとってのセーフティーネットとなるのは、ビルの一角で細々と運営されている中退者向けのフリースクールなのだが、彼女は最初、自分をあっさりと退学処分とした女校長の口から発せられた〈オルタナティブ〉という断片的な言葉に強く反応している。これは本作を象徴するキーワードなのだが、しかしこの時点での〈オルタナティブ〉は、どちらかと言えば「もし私が、ブロンドの、モデルさんのように綺麗な白人の女の子だったら」とか、「もし私が、ビヨンセだったら」とかいう、例の妄想の延長線上にある現実逃避の言葉として、彼女を曖昧に誘ったのではないか。実際、「DAY」というスペルすら読むことができない彼女にとって、〈オルタナティブ〉という言葉がどこまで具体的なイメージを伴ったかは定かではない。

 

 だからここでは、彼女が「現状から脱したい」と願っていたことだけが重要である。〈オルタナティブ〉は、向こうから勝手にやってきてくれるものではないのだから。「自己責任」という暴力で弱い立場にあるプレシャスを絶望させることなく、かと言って「現状から脱したい」と願うことを諦めさせてしまうことでもなく、この映画が用意するプレシャスと社会との接面は、「たしかに現実はこういうものかもしれない」と納得し得るだけの残酷なエッジを残しつつも、それが単なる悲惨趣味に陥ってしまうのを防ぐだけの研磨が施された、リアルな凹凸面なのである。だからこそ、そこで彼女が取る行動と、彼女が迎えることになる結末は、決して模範的なものとしてここに提示されているわけではないし、いい加減なご都合主義で放り出されているわけでもないのだ。

 客観的には「結果的に、たまたま物事がそう進んだ」とも思えてしまうようなことが、どん底から絞り出した意志と、誰かが差し出してくれたほんの少しの善意の積み重ねで、「たしかにこうなったのだ」と思えること。それを希望と呼ぶのだと、映画『プレシャス』は言っている。たとえそれが、束の間の錯覚であっても。そうした希望のアイコンとして描かれる、フリースクールの女教師を演ずるポーラ・パットンの飄々とした存在感が、この映画をさらに貴重なものにしているのだろう。「現実」の描写がそうであったように、彼女もまた、エッジを残しつつも研磨された存在なのだ。それは、慈善事業に従事する人に期待されそうな「いかにも意識高い/エモい」人物像からはかけ離れており、痙攣する画面とナラティヴとに新鮮な空気を送り続けることに成功している(そして、彼女もまた疎外されし者なのだ)。

 

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 「why me?(どうして私ばかり?)」という、プレシャスのあまりに重い呪いの言葉は、その新鮮な空気にさらされることで、少しずつ腐食の進行を遅らせていく。選ぶ余地のなかった「血縁」から離れ、たとえ不確かで、理想どおりのものではなくとも、たしかにこれを選んだのだと思える「縁」を手繰り寄せることによって、「もし私が、ブロンドの、モデルさんのように綺麗な白人の女の子だったら」というプレシャスの妄想的な〈オルタナティブ〉が、やがて「もし私が、読み書きができて、自分は自分なんだという勇気を持てる女の子だったら」という、本当の意味での〈オルタナティブ〉へと変わっていくとき、この映画は性別の区分けを飛び越えて、あるいは「貧困と暴力の連鎖を断つ」というテーマの硬さを飛び越えて、観る人の心を触ってしまうに違いない。

 自分が自分であることを、正当な権利でもって「回復」させること。そんな最低限の権利を誰にも、自分にも、身近な他者にも諦めさせてはいけないと、映画『プレシャス』は叫んでいる。もちろん、そうした社会的なメッセージはいささか教育的で説教臭く、プレシャスが背負う被害者性は特権的ですらある。しかし、初めて〈オルタナティブ〉に触れたプレシャスが鏡に映った自分を見るショットを観て、その演出上の巧みさではなくむしろその凡庸さにおいて、この映画を許せると思った。つまり、ある種の凡庸さでもって演出すべきものもあるのだ、ということ。これは王道を歩む価値のある映画である。

 

≪Trailer≫