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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ピーター・ソレット監督『キミに逢えたら!』

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『キミに逢えたら!』(Nick and Norah's Infinite Playlist, 2008)ピーター・ソレット

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 気になる女の子に自作のラブソングを捧げるのが「激痛!」なら、菊地成孔が言うところの「大激痛!」に相当するのは、自作のミックスCDを贈ることだろう。なんせそれは「自作」ではないのだから。誰かがこの負の連鎖を断ち切らぬ限り、思春期にこころを複雑骨折したインディー男子が未来永劫、生まれてきてしまう。しかし1976年生まれ、NYはブルックリン出身の映画作家、ピーター・ソレットの『キミに逢えたら!』が描くボーイ・ミーツ・ガールの物語に至っては、その原題に「Playlist」を配しただけに留まらず、「Infinite(永遠の)」という形容まで付いており、なるほどこれはただでは済まなそうだと、折れたこころを保存療法で治療中の男子諸君はつい身構えてしまうに違いない。

  しかも、この作品で男子側の主演を務めるのが、ジェイソン・ライトマンの青春ドラマ『JUNO/ジュノ』で、妊娠させてしまった自立的な彼女とどう接したらいいか分からずに終始ヘラヘラする男子高校生を演じ、またエドガー・ライトの現時点での最高傑作『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』で、新しい彼女をモノにするために歴代の元カレたちとバトルしなければならない不条理に見舞われた哀れなバンドマンを演じた、インディー男子像のアイコンたるあのマイケル・セラだという時点で、ギブスは大丈夫か、テーピングは緩くないか、やはりもっとガチガチに巻いておくんだったと、男子諸君の心中はますます騒がしい。 

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  ところで、この手の「インディー男子」は、いったいいつ、どこからやって来たのかという問題がある。正確には、彼らは「ずっとそこにいた」わけだが、なんとなくここ10年ほどで、都合よくコンテンツ商売のターゲットにされている印象があるのだが、ランドマークとなったのはおそらく、キャメロン・クロウの佳作『あの頃ペニー・レインと』において見習いの音楽ライター=ウィリアムを演じたパトリック・フュジットであり、あるいはアメリカのTVドラマ『The O.C.』において、ブライト・アイズが好きでメジャー・アーティストを馬鹿にしている男の子=セスを演じたアダム・ブロディあたりなのだろう。

  音楽メディア『ピッチフォーク』が巨大化していくのと同期するように、彼らの存在は顕在化し、今やテイラー・スウィフトの曲中でも言及されるメジャーな存在となった(実際、この『キミに逢えたら!』でも、マイケル・セラ演ずるニックの部屋には、『ピッチフォーク』の批評史において象徴的な作品=アーケイド・ファイアの『Funeral』が飾ってあり、デヴェンドラ・バンハートが劇中に登場したりする)。この翌年にはマーク・ウェブの『(500)日のサマー』が、さらにその翌年には前述の『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』が、またさらにその翌年にはここ日本においても大根仁の『モテキ』が公開されるわけで、まさに「やれやれ」なのだが、セールス規模とは別に、この『キミに逢えたら!』がその流れを後押しするのに一役買った感は否めない。

  興味深いのは、少なくともゼロ年代のある地点までは「ただ一方的に女の子に振り回されるインディー男子」という像があった筈なのだが、それがどこかの地点から少しずつ変容し、「女の子に声をかえられ、時に振り回され、時に性的に迫られて困っちゃう僕」が登場していることである。村上春樹以降、という雑な区切りをしつつ、一方では、性的自由を謳歌するガールズ・ムービーが市民権を得始めたのもおそらくはこのあたりの出来事であるから、そうした機運にタダ乗りしている側面もあるかと思われる。まあ、それは本題ではないのでひとまず置いておくが、変わらないのは、そういうウザいインディー男子は決まって音楽好きという設定で描かれる、ということである。 

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  さて、本題である。『ローリング・ストーン』のピーター・トラヴァースは「あらすじを書いているだけであくびが出てくる」と仰っているが、一応、流れを紹介しておこう。

  マイケル・セラの演ずるインディー・バンドのベーシスト、ニックは、ブロンドのゴージャスな女の子、トリス(アレクシス・ジーナ)にフラれ、未練タラタラで長文の留守電を吹き込んだり、お気に入りのインディー・ロックを集めたミックスCDを性懲りもなく送りつけたりしている(大激痛!)。本作のヒロインたるノラ(カット・デニングス)は、トリスが「マジでキモイよねー」と言って投げ捨てたミックスCDをゴミ箱から拾い上げ、そのスノッブな内容に感心しているような文科系女子だ。

  ニックとノラは、お互いにわだかまりの残った、過去形なのか現在進行形なのかハッキリしない異性を持ちつつたまたま出会っており、その出会いには運命どころか、何の必然性も合理性もない。神の手で導かれたわけではなく、お節介な友人に背中を押されて、あるいは女同士のつまらぬ意地の張り合いで、そうした様々な「不純な」ノイズにまみれた成り行きで顔を合わせたに過ぎない。しかし、人生を変えてしまうのにはそれでも十分なのだ。それが「起こった」ことだけがただ重要、出会いとはそういうものなのだろう。

  映画は、少年少女たちが生きる「ある夜」のことを描いている。人生を変えるには夜明けまでの一晩があれば十分だとでもいうかのように。その夜、NY市内のどこかで人気インディー・ロック・バンド、Where's Fluffy?(=『NME』の選ぶ「架空のロックバンドBEST10」にも選出)がシークレット・ライブをやるというので、様々にわだかまりを抱えたキッズたちがそれでも同じ路上を歩き、束の間のコミュニティーをそこらで形成していく。そこでは、いくつものロマンスが灯ったり消えたりしているのだろう。まさに、子供たちの『ビフォア・サンライズ』ごっごというか、ソフィア・コッポラの『ブリングリング』がある種のリアルだったすれば、ここにあるのはいささか時代錯誤のロマンティシズムである。 

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  そのロマンティシズムや共同体は、穿った見方をすれば至極ウソっぽい代物である。彼ら彼女らは、『ピッチフォーク』的な「インディー」という概念で一度きれいにフィルタリングされた母集団に属しており、本当の意味での他者(=ノイズ)に晒されることはない。

  また、主要人物たちの中にアジア系やユダヤ系の男女や「明るく愉快なゲイ」がもっともらしく含まれている一方、アフリカ系は駅の切符売り場くらいにしか登場しない。あるいは、これは両義的なのだが、そんな彼ら彼女らをとりあえず一つに束ねる役割を担うWhere's Fluffy?なるバンドの名前が疑問形であり、しかも最後までその全貌をカメラにさらすことがない――『桐島、部活やめるってよ』の桐島のように――のは、これがおとぎ話であることの自覚なのかもしれない。

 

 ともあれ、彼ら彼女らを乗せたマジックバスは進んでいく。マクガフィンとなるのは、パーティーで酔いつぶれ、自分を家まで送ってくれている車をそれと知らずに誘拐犯と勘違いし、物騒な単語で新しいバンド名を検討し合うバンドマンたちの会話に性的な危機を感じたノラの友人=キャロライン(アリ・グレイナー)がその車から逃げ出すことであり、グズグズのまま終わる筈だった夜はそうして映画的に=ご都合主義的に延長され、彼ら・彼女らの物語が、つまり「僕たち・私たちの『ビフォア・サンライズ』」が不格好に駆動していく。

  間もなく(新しいわだかまりを生んでしまったばかりの)ニックとノラがバンド・メンバーたちと渋々と合流し、ゲロを吐き散らしながら街を彷徨うキャロラインのあとを追う頼りない捜索隊が結成されると、カメラは車窓を流れていく大都市の街並みを平行に捉え、続くショットでは、無数の光でライトアップされたマンハッタンのビル街を車の後方から俯瞰で捉えると、今度は上空から街全体を収めた大俯瞰のショットが挟まれる。物語の幕開けに相応しいこのモンタージュの軽やかな呼吸が、映画作家のセンスとしては極めて普通なのだが、これが普通に良い。

  本人たちにとっては大きな物語、少なくとも「物語が始まるかもしれない!」という抑えようのない予感であるのに、遠くから見るとどこにでもありそうな小さな物語であり、この街では似たような物語が無数に、同時に展開されているのだろう、という相対化の視点が挟まれるわけだ。青春の刹那と虚しさと絶対性が、その一連のモンタージュで見事に素描される。恋は叶ってしまうことよりも、それが恋だと自覚されるまでの時間が愛おしいように、正直に言えば、映画のもっとも輝かしい瞬間はここである。

 やがてカメラは車内に戻り、若者たちの夜を、「Infinite(永遠の)」ではない恋を追いかけていくが、それを笑うことはできなかった。彼ら彼女らにとっては、今ここだけがすべてなのだ。

 

《Trailer》