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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ジャ・ジャンクー監督『山河ノスタルジア』

2015-2019 ★★★ ジャ・ジャンクー

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『山河ノスタルジア』(Mountains May Depart, 2015)ジャ・ジャンクー

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 決して傑出した内容ではないものの、だからと言って観る者を極端に苛立たせることもない、穏当と言えば穏当な作品をしかし、現代最高の映画作家のひとり、ジャ・ジャンクーが何らかの思慮のもとで撮ってしまったとき、その意図を好意的に酌んでみたり、2016年という単年における他の映画との相対的な出来栄えを考えたりするよりもまず、他ならぬジャ・ジャンクー監督その人が築いてきた卓越したフィルモグラフィーの中での相対的な評価によって、いかにもシネフィル然とした良識的な弁護よりもむしろ、素直に落胆の言葉を選びたくなってしまうのは仕方のないことだろう。

 もちろん、ジャ・ジャンクーほどの作家がたまたま映画との幸福な接点をここで取り結び損ねたからと言って、姑のようにめくじらを立ててそれを非難するのはいかにも端たない行為であるし、00年の『プラットホーム』や02年の『青の稲妻』、04年の『世界』といった傑作で一貫して「若者たち」を描いてきた気鋭の作家が、自然の流れとして「成熟」の季節を迎えるにあたって、妥協を含めた様々な試行錯誤を試みるとき、その過程で撮られた1本の映画がたまたま精彩を欠いた凡作であったところで、われわれがそれを餓鬼のような素朴さで非難することなど許されているはずもない。

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 気がかりなのは、本作『山河ノスタルジア』が、どうにも野心を欠いた「成熟」を志向しているように思える点である。もっとも、すでにご案内のとおり、本作は1999年―2014年―2025年という3つの時代を跨いだファミリー・メロドラマであり、一貫して「現在」ないしは「近過去」を扱ってきたジャ・ジャンクーが、珍しく想像上の「未来」を描いてみた点や、お得意の群像という形式(=多用される渇いたロング・ショット)ではなく、特定の数人のあいだの人間関係(=多用される感傷的なクロースアップ)を扱った点など、逆説的に野心と呼んで呼べぬこともない変化なのは事実である。

 しかし、映画を撮るために用意されたセットであるはずもない中国の地方都市の、剥き出しの岩山や、荒れ果てた土地や、薄汚れた街並みや、人々の風俗(=食事の描写が多いのもジャ・ジャンクー映画の特徴のひとつだ)までもが、あたかも映画のために残された世界の甘美な断片のような表情でカメラに切り取られていく、あのスリリングな映画生成の瞬間はここにはない。それは無論、『山河ノスタルジア』が、どちらかと言えば都心部に生きる、どちらかと言えば上流階級(というか、成り上がり)の人々を扱っているという現実的な・物理的な差異によるものだけではないだろう。

 例えば、その極めて大人げない記者会見によって、「頑固者のオモシロおじちゃん」という消費のされ方をお茶の間に許したばかりの蓮實重彦がかつて「表情の零度」と呼んだ、感情のベタツキを極限まで排除したあの「無演出という演出」とでも呼ぶほかない鮮烈なタッチは見る影もなく、もちろん何かしらの意図があるのだろうが、男も女も涙もろい。凡作というわけではないレニー・アブラハムソン監督の『ルーム』に寄せて書いたことの繰り返しになるが、画面に映るのは女優の頬を伝う涙ばかりで、いかなるドラマでもない、と言うべきだろう。それは文字通り、感情の垂れ流しである。

 あるいは、指導された演技ではなく、存在の震えによってのみ俳優が俳優たり得、映画が映画たり得ていたかつての傑作群を愛する者からすれば信じがたいことではあるのだが、例えば、別れた夫に親権がある息子と久しぶりに再会したのはいいものの、自分の目を逃れ、スカイプか何かで新しい母親と会話しているのを聞いた母(チャオ・タオ演)の心の震えを手の震えで直接的に表現するなど、ここにあるのは妥協と呼ぶことすら憚られるジャ・ジャンクー監督の低調ぶりである。これらの演出上の「乗れなさ」に比べれば、どう考えても25歳の設定には見えぬ1999年を舞台とした第1章の現実的な違和感など、無視してよい誤差のようなものだ。 

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 実際、その息子・ダオラー(ドン・ズージェン演)が主役となる第3章は傑出している。章を進むごとにワイドなスクリーンとなっていく『山河ノスタルジア』において、もっとも横長の画面を持つこの最終章では、物語の舞台がオーストラリアのメルボルンに移っており、ミニチュアのフェイクな「外国」を舞台にした『世界』を別とすれば、おそらくはジャ・ジャンクー監督が初めて中国国外でカメラを回した、しかも英語を主音声とした部分的な映画であるが、投資に成功した父(チャン・イー演)の無機質な豪邸に、早熟でありながらも不安定な、無軌道とまでは言わぬにしても混乱したダオラーの希薄な存在感が格好のコントラストになっており、本人はいたって涼しい顔で画面を活気づけている。

 もちろん、ここでも不満がまったくないわけではない。特に、「俺はただ生きてるだけだ」という唐突な一言が鮮烈な余韻を残した『青の稲妻』での少年の葛藤が、ダオラーの中でもほぼ同質に(もちろん、いささかエモーショナルに)、やや説明的な言葉として反復されているのは既視感があるし、そんなことを思っていたら、そういえば、『プラットホーム』の中ですらついぞ描かれることのなかったプラットホームがさらりと画面に収められていたな、とか、『罪の手ざわり』で印象的な描かれ方をした花火や、それに準ずる発破音などがけっこうな頻度で乱発されていたな、ということが気になりだしたりもした。「立ち往生する車両」というのも、ジャ・ジャンクー映画ではもはや定番のイメージである。

 だが、そのワイドな横幅を活かしたショットで海を画面いっぱいに収めて見せる時の美しさは、風景写真的な(=どこかで見たような、交換できてしまいそうな、観光地の絵葉書やウインドウズのサンプル画像にでもありそうな)類の美しさではあるものの、離れて暮らす母親の名前=タオが、他ならぬ「波」の読みと同じであることがそれとなく示されると状況は一変し、画面を覆う海や、波打ち際の水のうねりや、波の音までもがたしかに母性を帯びはじめ、完璧な構図で海を見つめるダオラーの存在の震えが、たしかに画面を満たし、静かに揺らすだろう。そこでは、忘れてしまった故郷への郷愁と、忘れることなどない息子への愛が、映画的と呼ぶほかないモンタージュの呼吸でたしかに重なり合っている。

 だからこそ、惜しむらくは、第1章と第2章の弱さである。特に、典型的な男女の三角関係を扱った第1章は、さすがにフランソワ・トリュフォー監督の『突然炎のごとく』をやれ、とは言えぬにしても、ジャ・ジャンクージャ・ジャンクーたらしめた渇きや不安定さを「技術」として召喚し直して見せるくらいの「野心」、あるいは「成熟」こそがもう少し欲しかった。