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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ジョージ・ミラー監督『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

2015-2019 ★★★★1/2 ジョージ・ミラー ESSENTIAL (BEST NEW MOVIE)

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『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(Mad Max: Fury Road, 2015) ジョージ・ミラー

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 6月27日に劇場で観て以来、改めてこの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をソフトで再見して思ったのは、これはジョージ・ミラーにとっての「完全映画」なのではないか、ということである。

 

 補足が必要だろうか。アンドレ・バザンが1946年の論考「完全映画の神話」で述べるところによれば、映画とは観念上の現象であり、その観念は「プラトンの時代から、人々の頭の中に完全な形で存在していた」とされる。この説に倣えば、映画は第七芸術としての「純粋映画」から出発して少しずつ「進化」しているのではなく、むしろ、そこで「進化」などと呼ばれる技術的発展に伴い、その起源たる完全映画へと「回帰」しているのである。

  アメリカン・ニューシネマからの影響が色濃い1979年の『マッドマックス』の頃はともかく、1981年の『マッドマックス2』、少なくとも1985年の『マッドマックス/サンダードーム』の頃には、ジョージ・ミラーの頭の中には、この『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と同等、あるいは「より完全な」映画が完成していた筈である。実際、『マッドマックス2』や『マッドマックス/サンダードーム』の世界観やいくつかの意匠は、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』へと受け継がれているように思う。 

 そう、多くの人が新作の予習を兼ねて『マッドマックス/サンダードーム』を観た時に感じたであろう違和感は、ジョージ・ミラーの頭の中にあった「完全映画」が、現実の映画技術に物質的に敗北し、おそらくは10分の1ほどもその完全な姿を再現するには至らなかった屈辱から来るものなのだ。

 

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  また、一時期からのシネマコンプレックスでは、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の禍々しい予告編が必ずと言っていいほど執拗に流れていたから、ジョージ・ミラーの頭の中にある「完全映画」へとより接近した映像を観てしまったわれわれ後追い世代の観客は、リアルタイム鑑賞時の記憶による補正もなく、『マッドマックス2』や『マッドマックス/サンダードーム』をただ「物質的な敗北」としてしか観る術がなかったのである。

  そう考えると、ジョージ・ミラーがしばらく実写映画を離れ、『ベイブ』や『ハッピーフィート』といったアニメーション映画へ向かった、というのも、一応の説明はつく。言うまでもなく、アニメーション映画もまた、人々の頭の中に完全な形で存在していた「完全映画」を実現するために人間が生み出した装置なのだから。『マッドマックス/サンダードーム』で「映画」よりも先に「物質」に敗北したジョージ・ミラーの理想=完全映画にとって、人間や物質的な撮影、物質的な美術などは、彼の足を引っ張る出来の悪い要素に過ぎなかったのだろう。

 

 だから、逆説的になるが、ロケ撮影を基調としつつも様々なエフェクト技術を駆使して完成したのであろう『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観てわれわれが感じるのは、もっぱらジョージ・ミラーが「完全映画」への接近することに成功「してしまった」ことから生じる安堵=退屈さのようなものであり、丁寧なモンタージュの積み重ねで描かれる「逃走と闘争」の映画的語り口には、さほど新鮮さは感じないだろう。

 あるいは、画面の中で悪戦苦闘する人間たちにしても、スクリーンを囲う長方形の枠を脅かすほどの生々しい活気をついぞ帯びることはない。むしろ、彼ら・彼女らのどこかリアリティを欠いた質感・存在感――もしくは、逆にリアリティが過剰なのだろうか――には、『ファイナルファンタジーシリーズ』の精密な3次元コンピュータグラフィックスに近いものを感じた。

 

 

 にも関わらず、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』をためらいなく傑作と断言し得るとすれば、それは、この映画の「単純さ」ゆえである。

 

 まずはその「動線」と「アクション」の単純さだ。乱暴に言ってしまえば、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とは、ジョン・フォード監督の傑作『駅馬車』における最後の「逃走と闘争」を、同一の動線上で二度、それも往路と復路とで繰り返すに過ぎないのだから。

 もちろん、核戦争などで荒廃し汚染されたという未来の荒野に騎兵隊の応援が来ることはなく、力が均衡し、それゆえに決着が徹底的に引き伸ばされた彼らの「逃走」は、その目的地が不在郷であることからして、必然的に中断せざるを得ない。彼ら・彼女らの復路は、では、「闘争」と呼んでいいのだろうか。少なくとも、彼らが乗っているウォー・タンクがそこで、「たまたま乗り合わせた他者の寄せ集め」としての駅馬車であることをやめることは確かだ。そこでは、必ずしも同一の目的を持たない人々が、無言のうちに連帯している。これを手放したら終わりだとでも言うかのように。 

 あるいは、全員がヒーローとはいかぬにしても、たまたま形成された歪な共同体が、明確な指揮・統率・命令の体系を持つことなく、それぞれの構成員の長所を活かし、がむしゃらに足掻いているうちに勝利を達成するという極めて映画的な方程式は、ある意味ではハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』的とも言えるだろう。こうした「物語」の単純さもまた、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の魅力だ。(ついでに言うと、バイクの軍団が丘を並走して追ってくる様子には、西部劇におけるインディアンの攻撃部隊が重なって見えたりもする。けっこう、西部劇的な要素は多い。)

 

 また、「設定」も同じように単純である。1979年の『マッドマックス』を観ていない人にとってはまったくもって信じがたく、また、真相がどうであろうと物語にはほとんど関係のない「俺はかつて警官だった」という設定にしても、彼らの住んでいる星がどのように荒廃し、いま人々はどのような文明で生きているのかにしても、あるいはマックスと同様の烙印を押された短髪の女性が、どのような背景を背負っているのかにしても、明確には説明されない。ただ、このような世界があり、このような文明があり、そこでこのような「逃走と闘争」が演じられた。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はただそのようなことをつぶやく映画に過ぎない。

 これは蛇足までだが、「ランニングタイム」の単純さも指摘されて良いだろう。いわゆる「大作」と呼ばれるヒット映画が、例えば『ダークナイト ライジング』165分、『インターステラー』169分、『アベンジャーズ』143分、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』141分、などと相変わらず長尺化していることを考えると、120分で一切を語り切る『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の潔さは「単純に」称賛されて良い。また、『ダークナイト』等で盛んに議論された「正義と悪」の描写についても、極めて単純だ。つまり、そのような概念は描かれない。マックスはただ、その時々の状況において、より生存確率の高い方にベットし続ける存在に過ぎないのだ。

 

 逆説的に言えば、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』とは、主題を持たない純粋なアクション映画――いや、ジョージ・ミラーの執念と技術の進歩によって、ようやく一定の再現率で映像化された、ある意味では自堕落な「完全映画」なのかもしれない。それを黙って甘受する映画作家と、それを黙って甘受するわれわれ観客たちのある種の「動物さ」を思えば、満点からいささか評価レートが欠けてしまうのもまた甘受すべきだろうか。