饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』

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『ロブスター』(The Lobster, 2015)ヨルゴス・ランティモス  

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 これは・・・・・かなり「喰らう」作品だ。『籠の中の乙女』で世間をざわつかせたヨルゴス・ランティモスの新作、この『ロブスター』なる映画で、人は「一人で生きること」を許されていない。あらすじをざっと読んだ限り、例えば『トゥモロー・ワールド』のような、先進国における少子化の問題をモチーフにした作品なのかと思っていたのだが、必ずしもそうではない。序盤にそれとなく説明されるように、ここでは異性愛者であっても同性愛者であってもまったく問題ない。禁じられているのは、とにかく「一人で生きること」なのだ。

 妻に捨てられる形で11年と1ヶ月の結婚生活に終わりを迎えた主人公の男(コリン・ファレル)、そのくたびれた背格好から逆算/推測するに、「一定の年齢(25~30歳くらい?)以上で役所に届け出たパートナーがいない(もしくはパートナーを失った)人間はもれなく矯正施設送り」とか、おおよそそのような制度がまかり通っている国が舞台のようである。実際、町は警察による厳格な監視網が敷かれており、迂闊に一人で歩いているとすぐさま警察官が飛んできては捕まえられ、職務質問の対象となってしまう(奇数人数でも「端数」が生じるので危ない)。

 男は離婚によりあっけなく矯正施設行きとなるのだが、そこでの矯正プログラムが可笑しくて笑ってしまう(地元のシネマテークは公開初日でありながら観客総数4人だったので遠慮なく笑った)。例えば、「一人で生きていると、食べ物がのどにつまった時に介助してくれる人がいないので、すぐさまあの世行きですよ」とか、「一人で生きていると、特に女の人は、通りを歩いているだけですぐさまレイプされてしまうので、誰かといた方が安心ですよ」とか、そんな具合である。真面目なのか冗談なのか、利用者たちは大いに拍手したり頷いたりしている・・・・。

 言うまでもなく、どちらも現実的なリスクではある。しかし後者はいささか極端な例であるし、前者に至っては、「あなた方はこんなことのために必死になって恋だの愛だの言ってるんですよ、分かってますか?」という製作側の悪意が透けて見える。とてもユーモラスでありながら・・・・ドブ川のように黒い。真面目な人であれば、もちろん、こう言うだろう。「違うよ、人は愛し愛されて誰かと一生を共にするんだよ」と。そうであればいいのにな、と、筆者も思う。では、しかし、愛とは何だ?という話である。この、子供じみていながらも究極の問い。こうして、『ロブスター』はその主題を明らかにする。 

 

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 真面目な話、愛とは何なのだろうか。少子化に悩む先進国の未来を暗黒に描くのであれば、マイナンバーで無作為に抽出された同年代の男女を強制的に結婚・性行させ、無理矢理に子供を産ませる社会を描けばよい。逆らう奴は容赦なく弾圧である。映画を最低限ヒットさせたいのであれば、それに抵抗する人びとを描けば、なんとなく「愛」と呼べそうな何かを――陳腐なメロドラマにしかならないことを覚悟しさえすれば――それらしく素描することはできるだろう。

 しかし、男が収容される矯正施設では、45日以内に他の利用者に「恋をし、愛し合った」上で、パートナーとしての関係性を成立させなければならないのだ。逆を言えば、「自由に恋愛」した上で、相手を選んで良いのである。つまり、建前としての自由恋愛制。しかも制限時間付き。ここにこの映画の巧妙さがある。なぜなら、「相応の年齢になるまでに結婚しないと幸せになれない(=動物にされてしまう)」などという設定は、われわれが生きるこの社会が発する圧力そのものなのだから。それはもはや、戯画とは呼べまい。

 おまけに、現実のこの世界でもしばしばそうであるように、自由に恋愛して運命の人を愛せと言われても、人は狼狽えることしかできないだろう。制限時間が45日だろうが100年だろうが、運命の相手に出会う確率が0に近い点では一緒だからだ。実際、この『ロブスター』において人は、ロマンスの無根拠性に耐え兼ね、結局は単に似たもの同士で惹かれ合ったり、生存のために恋だの愛だのを偽造したりしているに過ぎない(ある者は、「恋する女と自分がともに乱視を伴う近視であること」を運命的な共通項にしようとし、またある者は、「鼻血が出やすいこと」を女との共通項に仕立て上げようと、顔面を机に叩きつけたりしている・・・・)。

 

 『籠の中の乙女』に引き続き、「特殊条件下での社会実験」的な設定を持つ『ロブスター』は、いささか単純化されているとはいえ、「不自由な自由」の中で溺れていく人間の姿を描いている。そう、すでに社会学からの試論的な報告もあるように、完全なる自由恋愛が建前上は保証されていても、人は自由になど恋愛していないのだ。それどころか、人は「似た者同士」でしかマッチングしないので、建前としての自由が逆に社会を狭め、分断を固定化する方向に機能することすらある。人はこれに抗うことはできない筈である。なぜなら、その際に拠り所とすべき「愛」そのものが無根拠なのだから。

 もっとも印象的なショットの一つに、ダンス・パーティーの場面があるのでここで思い出しておこう。それまで特に行動を起こしていなかった主人公の男(彼はこの強制婚活に失敗した暁にはロブスターになりたいという)が、突如として席を立ちあがり、フロアを挟んで向かい側に座っている一人の女性をダンスに誘いに行く。その一連の動作は限りなく引き伸ばされ、超スローモーションによって超劇的に演出されるのだが、これが問題だ。普通の映画であれば、これが何かしら運命的な出会いの場となるのだろう。しかしこの悪意に満ちた映画では、その過剰さゆえに、人が誰かに好意を持つことの根本的な無根拠さを強調するばかりだ(事実、その出会いは何の果実も結ばず空振りに終わる)。 

 

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 さらに話をややこしくしておこう。

 いま、例えば子供の貧困問題などを話題にする時、「機会の平等」というのが決まって論じられる。簡単に言えば、自分の意思ではどうにもできない「人生の初期値(=国、民族、地域、家庭、親の経済・文化レベル、などなど)」の中にすでに格差が含まれているのだからこれを是正しなければ云々、という問題で、誰もが知っているように、人は生まれてくる家庭や地域を選べない。与えられた初期値と条件の中で、人はどうにかこうして生きている。「だってこれが自分なんだもん」などとつぶやきながら。

 しかし、この『ロブスター』なる映画は、さらに根源的で身も蓋もない視線を投げかけているように思うのだ。つまり、「人は生まれてくる生物を選べない」ということである。しばしばポエムなどを駆使して鳥や花に憧れてしまう人がいるように、「人にさえ生まれなければ俺だって・私だってもう少しうまくやれたのに」と考える人は少なくないだろう。不思議な日本語になるが、つまり、「人間生まれてしまった人と、花や動物に生まれることのできた人の間ですでに格差がある」とでも言うべき事態である。

 

 この映画の世界で制度化されているのは、コミュニケーション能力の高低による人間の選別である。そんなことをして政府や社会にどのような「国益」があるのかは定かでない。少なくとも、恋する女と自分がともに乱視を伴う近視であることに異様なまでに固執したり、女との共通項を仕立て上げるために顔面を机に叩きつけたりするのは尋常ではないだろう。大いに単純化されているとはいえ、施設に集められた男女は、いわばコミュニケーション弱者たちである。「誤って人間に生まれてしまった人を生かしておくのは可哀想だから、好きな動物に転生させてあげよう」とでも言うのだろうか。けっこうなディストピアだ。

 また、『ロブスター』の描く並行世界(いや、果たして「並行」の世界と呼んでいいのか、「今ここ」の世界そのものなのではないかと迷ってしまうところが、この映画の黒いユーモアなのだが)が特徴的なのは、「俺が・私がうまくいかないのは、俺の・私のせいだ」と、多くの人がごく自然と考えていることだろう。つまり、すべての問題が(宮台的な)個人のコミュニケーション能力の問題へと収斂しており、そこに疑問を持ってシステムそのものを転覆させようとする(宇野的な)メタ・プレイヤーは登場しないのだ。もちろん、この傾向(=制度の黙認)自体がひとつの寓話的意図でもあるのだが。 

 

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  さらにややこしいことに、45日以内に探さなければならない「愛」だの「パートナー」とやらは――しばしばこの現実世界でもそうであるように――建前でも良いのである。実際、「脱走」した独身者たちが集う地下コミューンから体制側に潜入している女性スパイは、好きでもない太った歯医者と結婚し、性行為を伴う仮面生活を虚しく送っている。それでも、警察に摘発されることはない。なぜなら、愛の存在を証明できないのと同様に、愛の不存在もまた証明できないからだ。(バイセクシャルと申請することができないのは、強制婚活に失敗した者たちが延命だけを目当てにカップルを偽装し、脱出を共謀することを防ぐためだろう。)

 その存在も不存在も証明できないもの。そんな不確かなものを建前とは言え信じようとしているのかと、人は今さらながらに戦慄を禁じ得ない。われわれは、共に生きるべき誰かを本当に必要としているのだろうか? 本当に誰かを愛し、本当に愛されたいと思っているのだろうか? それとも、そう思うように刷り込まれているだけなのだろうか? ラブ&ピース、とはよく言ったものだが、地球上に生きるすべての人間が常に誰かと愛し愛されているような世界は、控えめに言ってもかなりキモい。なぜなら、それは、強制されたラブ&ピースによる相互監視社会でしかないからだ(想像してみよう、町を一人で歩いていると警察が寄ってきて、「愛し合ってるかい?」と職質されるような世界を)。

 

 しかし、人がなんとなく否定するのを躊躇う大義名分(=愛、道徳、平和、人間らしさなど)を隠れ蓑に、なし崩し的に社会から同意を求められてしまう時、人はそれに適応できない自分を自ら疎外してしまうのだろう。もしくは、意地になって適応しようとする。例えば、「ロブスターになって100年生きて、死ぬまでセックスしていたい」と願っていたのも束の間、失明した女のために自らもその眼球をくり抜こうとする、この映画の哀れな男のように。それは愛の証明でも何でもない。誰かのことを愛していると信じている自分のことを、自分でまったく信じられないこと。この自己という存在に対する圧倒的な現実感のなさ。この映画のリアルは、まさにそこにある。