饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

橋口亮輔監督『恋人たち』

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『恋人たち』(2015) 橋口亮輔

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誰しもが止まった時計を見つめながら、過去の思い出の中を生き、「ソフトに死んでいる」――。橋口亮輔監督、待望の長編『恋人たち』では、そのような3人の男女がカメラに収まっている。周知のように、それらの中心人物を演じているのは、ワークショップで橋口監督と出会った俳優志望者たちである。「生活」の中に置かれたカメラによる、時に効果的な長回しで観る者を脅すリアリズム技法の強烈な筆致と、素人同然の俳優志望者たちによる、何も失う物のないすべてを投げ打ったような演技は、互いに寄り添いながら調和していくというより、臨界すれすれのところでせめぎ合い、俳優志望者たちの資質的な限界が先に露呈するか、あるいは橋口監督の作家的な限界が先に露呈するかといった苛烈な我慢比べの様相を呈している。

 

橋梁点検事業者に勤務し、片腕のない上司(黒田大輔)らとともに日々橋梁の点検に回るアツシ(篠原篤)は、点検ハンマーによるたたき検査の名手として会社からも一目置かれている存在なのだが、数年前に通り魔殺人で妻を亡くしており、俺の人生最良の季節はすでに失われてしまったのだと、慢性的な鬱状態の中で人生に希望を見出せずにいる。また、アツシとは直接の接点を持たない瞳子(成嶋瞳子)は、弁当工場にパートで勤め、夫とその母親とともに3人で暮らしているが、そこは昭和で時間が止まってしまったような異空間であり、機嫌を損なえば手をあげ茶碗を投げる夫との隷属的なセックスを時折こなしながら、崇拝する皇太子妃のパレードに友人とともに参列した時のビデオを何度も見直しては思い出に浸っている。自己表現の場と言えば、小説の執筆と少女漫画風のイラスト作成くらいである。

 

また、妻を殺した通り魔殺人の犯人およびその家族を損害賠償で訴えることを目論むアツシが、藁にもすがる思いで相談を持ち掛ける弁護士として登場する四ノ宮(池田良)は、若くして独立を計画するやり手であり、女子アナや種々の企業からの依頼を飄々とこなしてはいるが、階段を歩行中に何者かに背中を押され、転倒し、足首を骨折。それを契機に、順風満帆だった人生の雲行きが怪しくなる。目下懸案なのは、学生時代からの友人とその妻が子連れで見舞いに来てくれたまではいいが、自身が同性愛者であることがあらぬ偏見と誤解を招き、友人夫婦との間に軋轢が生じてしまったことだ。なぜなら、その友人(山中聡)は、四ノ宮にとって唯一無二の親友であり、また、秘めた思いを寄せ続ける片思いの相手でもあるのだから。しかも、大学生と思しき現在の恋人からも別れを切り出され、何もかもがうまくいかない日々が続いている。 

 

***

 

さて、長編ということで言えば前作にあたる『ぐるりのこと。』を改めて見直して、筆者はこんなことを書いた。

 

ハッシュ!』が描くような、いびつでありながらも限りなく「理想的な共同体」や、『ぐるりのこと。』が描く「逃げないパートナー」を持てなかった人たちは、果たしてどのように生きればいいのだろう? 橋口監督は、この問いにはいまだ答えていないように思う。それが回答可能な問いかどうかはひとまず保留して、7年ぶりの長編となる『恋人たち』が果たして何を描いているのか、僕はそれをこの目で確かめるべく、迷わず劇場へ駆けつけるつもりである。

 

この事前準備に則って言うなら、『恋人たち』はあまりにツラい映画である。アツシは「『ぐるりのこと。』が描くようなパートナーを一度は持ったが、そのパートナーを永遠に奪われてしまった男」であり、瞳子は「パートナーを持ったはいいが、夫と『ぐるりのこと。』が描くような関係性を築けなかった女」であり、四ノ宮は「決定的なパートナーを持つに至っていない、またすぐには持てそうもない男」として、『恋人たち』に登場しているのだから。少なくとも「登場人物の設定/背景」という点で言えば、期待通りの背景がそれぞれの人物に与えられており、橋口監督はさらに上の次元を目指していたのだと思う。

 

顕著なのは、『ぐるりのこと。』では時代背景の説明のために「使われた」感もあった時代を象徴するような事件の当事者を、あえて登場人物に加えたことだろう。言うまでもない、通り魔殺人で妻を失ったアツシのことだが、彼のある意味では特権的とも言える巨大な被害者性は、たかだか140分の映画でその「絶望と再生」――宣伝文句で軽々しく使われてるような――を語れるものなのだろうか、という不安が脳裏をよぎったりもする。なぜなら、アツシのような人間がどのようにして生きていったらいいのだろうという、「いまだ答えていない問い」に対応する設定を登場人物に課したはいいが、だとすれば、次は「それが回答可能な問いなのかどうか」という壁に直面せざるを得ないからである。

 

しかも、アツシが当事者として形成する現代日本との社会的な接点は、

 

心神喪失者の行為は、罰しない。――刑法第39条第1項

 

 という具体的な一点であり、ますます140分程度の尺で、しかも群像劇の形式で扱える題材ではない予感がしてしまう。

 

***

 

改めて言うまでもなく、世の中のすべての理不尽、不条理にコミットしながら生きることは到底不可能だ。実際、この『恋人たち』を観て、刑法第39条第1項の前に積み上げられた種々の議論を――もちろん、加害者と被害者の両面の立場から――コミットしようという人はほぼいないだろう。そこには「壁」がそびえたっているのだ。「こういう問題で困っている人たちがいる」ということを、マスメディアが報じる。あるいは、「こういうことで困っています」ということを、ソーシャルメディアを通じて個人が発信する。そのすべてに誠実に耳を傾け、当事者たちの声に誠実に向き合いたいと誰しもが願っている。そう、願うことはタダなのだから。

 

しかしわれわれは、そして『恋人たち』で描かれる人物たちは、「当事者性の壁」とでも言うべき無数の亀裂で深く断絶された存在である。それでも、誰しもが、自分の「当事者性」を、「物語」を、「悲劇」を、「思い」を、誰かに受け止めて欲しいと願っている。しかし『渚のシンドバッド』で橋口監督自らが表現したように、世界は他者の集合であり、その無垢な願いは遅かれ早かれ失望に変わらざるを得ない。実際、この『恋人たち』では、そうした願いが失望へと転じていく瞬間がつぶさに、むしろ「執拗に」描写される。滑り落ちていく言葉、受け取られない思い。その徹底的なディスコミュニケーション。そう、コミュニケーションというものに寄せる期待値の差、つまりその非対称性から生じる「空転」が主題的に表現されているのだ。それは映画の始まり方に象徴されているように思えた。

 

冒頭、無精ひげの男(アツシ)が、薄暗い部屋の中で過去を振り返り、決して滑らかではない言葉を、しかしエモーショナルに発している。婚姻届を今は亡き妻と作成していた時のこと、そこでタバコをやめるとついつい宣言してしまったこと、その時は本当に本気でそう思ったのだということ、そして、その宣言を破ってしまった自分を妻が責めなかったことなどを語っているのだ。その話しぶりには思わず熱が入るが、カメラは男の顔や、僅かな隙間を残して閉まり切っていない襖のクローズアップばかりを収めているので、その話を誰が聞いていたのか、そもそも聞き手を持たない独り言だったのかは、その時点では判然としない。その意味が明らかになるのは、映画の中盤、弁護士事務所でアツシが四ノ宮に協力を訴えかける場面である。

 

アツシはそこで、冒頭のあの言葉の一部を確かに発するのだ。そこでわれわれは、冒頭におけるアツシが、来るべき日に備えて妻と自分とのもっとも輝いていた日々を物語って見せる「練習」をしていたのではないかと思うわけである。だとすれば、ここで二つのことが言える。一つは、訴訟の可能性を閉ざされたアツシが、予期せぬタイミングで訪れた「来るべき瞬間」を前に取り乱し、練習の成果をほとんど発揮できなかったこと。もう一つが、「誰かに自分の物語を聞いて欲しい、聞いてもらえたらこんな風に話す」とシミュレートしていたアツシが、しかしその先読みの飛躍ゆえに、根源的にはコミュニケーションそのものを信頼していなかったのでは、ということである。つまり、練習を重ねていた筈の状況で発生したコミュニケーションでしくじり、四ノ宮に裏切られたと感じるアツシは、実は、自分の方から先にコミュニケーションを裏切っていたのである。

 

自分の思いを「本当に」受け止め、自分と「本当に」向き合って欲しいと願う人間が、その一方では他者とのコミュニケーションを「本当に」は信用していないことの矛盾。こうしたコミュニケーション/ディスコミュニケーションの原理は、『恋人たち』で意識的に、むしろ執拗に反復されている。実際、ある状況ではアツシの思いをスルーする立場にあった四ノ宮は、また別の状況では、誤解をかけられた学生時代からの親友にスルーされる立場に置かれてしまう。一方的に電話を切られた四ノ宮が、繁華街の一角でもはや誰ともつながっていない電話機に自分の正当性を語る場面の空虚さは、冒頭のアツシが見せた独白のそれと同じである。また、結婚詐欺の男の口説き文句を信じた瞳子が、「夢あるか?って聞いたでしょ。あれからずっと考えていたの」と前置きしてから語る終盤の場面も、あらゆる意味で独白たらざるを得ないのは言うまでもない。

 

***

 

他者を恐れるあまりに、起こり得るコミュニケーションを「想定」し、それに備えて「練習」することが、かえって他者を遠ざけてしまうこと。もっと瞬発的で、見返りなどほとんどない筈のコミュニケーションにあらぬ期待をかけることが、かえってディスコミュニケーションへの近道になってしまうこと。そして、それを「当事者性の壁」の問題と誤解し、特権的に落胆することで、他者と他者とが永遠にすれ違ってしまうこと。97-98年以降に陥った長い「鬱期」の日本で繰り返し演じられたであろう、そうした別離の瞬間を、素人俳優たちとともになるべく具体的に、執拗に素描しようとした橋口監督の野心はここで冴えわたっている。

 

もちろん、無名俳優の起用、生活の撮影とロケ撮影、そして長回しによる臨場感の増幅というキーワードは、今さらここで有名批評家の論考や具体的なクラシックスの名を挙げるまでもなく、映画におけるリアリズム技法の古典にして王道である(ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』を見直し、アンドレ・バザンの『映画とは何か』を再読しよう)。だから、われわれがこの『恋人たち』に遭遇することで直面する新鮮さとは、「現代日本の空気」とか「リアリズムの極致」といった「さもありそうな」、しかし実際には使い古された大きな言葉でしかない虚像によってもたらされるものではなく、ここで素描される具体的で執拗な瞬間の連続から帰納的に立ち上がるものなのだ。

 

だから、その具体的で執拗な瞬間こそを描こうとしたのがこの『恋人たち』であれば、何も文句などない。実際、橋口監督その人が、

 

この映画の中では誰の問題も解決しません。でも、人間は生きていかざるを得ないんですよね。

 

とあっけなく語って見せているように、基本的にはそのような映画である。しかし、『恋人たち』は、『ぐるりのこと。』のラストで用いた演出を分かりやすく再現しながら、少なくとアツシのパートにおいては、長いトンネルの出口に射す光を描いて「しまって」いるではないか。

 

僕は閉じた映画では駄目だと思っています。どんな悲しみや苦しみを描いても、人生を否定したくないし、自分自身を否定したくない。生きているこの世界を肯定したい。

 

と思うのは自然なことだし、個人的にもそのような映画こそを――ラース・フォン・トリアーではなく――観たいと思っている。しかし、それぞれのショットとシーケンスが持つリアリズムに比べて、それらを遠くから見た時の連続性、特に最後の「光」へと流れていく過程はいささか唐突であり、その取って付けたよう「反転」に戸惑いを隠せなかったことは素直に告白しておきたい。もちろん、アツシのパートにおける黒田の存在とその具体的なエピソードを、これまでに確認してきたコミュニケーション/ディスコミュニケーションの原理に照らして考えれば、それなりの「ヒント」を見出すことは簡単である。

 

しかし、その「反転」を描こうとすれば、この映画は少なくともあと40分の上演時間を必要とした筈だ。また、それを省略することによってこそ、観る者の想像力に何かが託されるという、監督の意図が理解できぬほど不寛容な人間でもないつもりである。しかし僕は、やるならやるで180分の連続的な説得力を持つリアリズムが見たかったし、それが役者的にも作家的にも予算的にも限界を超えた要求だったと言うのなら、それならそれで、前述の『自転車泥棒』やフェデリコ・フェリーニの『道』のように終わってもよかったではないか、と思わずにはいられない。それでこその、想像力への信頼である。俳優志望者たちの資質的な限界が先に露呈するか、あるいは橋口監督の作家的な限界が先に露呈するかといった苛烈な我慢比べは、曖昧な判定戦へと持ち越されてしまった感が否めない。

 

もしくは、省略するならするで、観たかったのは「映画的な」省略だったことを未練がましく付け加えずにはいられない。フェデリコ・フェリーニの『カビリアの夜』において、何の問題も解決していない、むしろ落ちるところまで落ちたカビリアが浮かべる微笑と、そこで彼女を取り巻いた幻像との意味を考えることこそが、映画的な想像力というものではないだろうか。あるいは、役者の限界や作家の限界を超えた「回答不可能な問い」に、ふと答えを出してしまうもの。それを映画的マジックリアリズムと呼び、擁護し、またその演出技法の更新を願うことは、叶わぬ願いなのだろうか。  

 

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