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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ニコラス・レイ監督『大砂塵』

ニコラス・レイ 1950s ★★★★★ ESSENTIAL (CLASSIC)

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『大砂塵』(Johnny Guitar, 1954) ニコラス・レイ

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 ニコラス・レイの『大砂塵』という映画が、歴史に残る傑作であることに疑いの余地はないのだが、しかし、果たしてそれが「西部劇の傑作」なのかと問われれば、さきほどまでの自信はたちまち消え去ってしまう。冒頭のシークエンスを思い起こす。盗賊に強盗される駅馬車の一行を、勇ましい射撃の腕前で西部劇的に救出するわけでもなく、ただ丘の上から眺めている男の背中――なぜか銃ではなくギターを背負っている――をあまりにも自然と提示されるとき、人はすでに、この映画の恐ろしい魔術にかけられているのだ。

 

 その後、冷静に考えればどう見てもおかしな設定の人間たちが、さもこれが西部劇の基本だというような涼しい表情で続々と登場するとき、その魔術はさらに深まっていく。 

 町で一番の乱暴者でありながら、なぜかダンスが得意だという男。そんな乱暴者を、その美貌と男気で子犬のように手なずけている、酒場の女主人。そして、通常の西部劇であれば物語の「無個性な背景」として町の一角を占めるにすぎない筈の普通の女が、その乱暴者に恋心を燃やし、酒場の女主人に炎のような嫉妬心を放っている。彼女は、倒錯した恋心と嫉妬心で、駅馬車強盗の犯人を例の乱暴者の仕業と決めつけ、保安官と町の男どもをあごで使いながら(!)酒場に押し寄せるのである。「手に入らぬのなら殺してしまえ」というわけだ。 

 その一触即発の現場における、女主人の肝の据わった対応を見ているだけでも楽しいのだが、厨房でまかないを食べていた旅の男、それも、拳銃ではなくギターを抱えた例の男が、ぶらりと割って入るではないか。西部劇において、「酒場での乱闘」というのは避けられない儀式であった筈だが、誰しもが偽名と分かる「ジョニー・ギター」を名乗るこの男の調子っぱずれな仲裁に、場の空気はグダグダと緩み、「てめえ、死にてえのか、なぜ銃を持たない」と問われると、「西部一の早撃ちじゃないからさ」といった具合である。

 

 やがてこのギター弾きは、銃だけが法となる西部の、乱闘だけが期待される酒場において、殺しあう以外に道はないかに見えた修羅場をダンス・フロアに変えてしまうのであった。映画は基本、この倒錯的な3人の反・西部劇的な三角関係と、そこに割って入る旅の男、極めて反・西部劇的なジョニー・ギターを軸に進行する。

 当然、ここまでやってしまえば、もう取り返しが付かない。『大砂塵』においてはその後、どれほど「西部劇的に」正しい舞台が整えられようとも、ニコラス・レイの仕込んだ魔術によってすべてが「映画」の前に敗れ去っていくのだ。すでに述べたように、「西部劇的な一触即発」は「映画的みたいに」仲裁され、「西部劇的な舞台(=酒場)」は「映画みたいに」あっさりと燃やされるだろう。また、「西部劇的なリンチ」がどのようにして「映画みたいに」回避されるかを見るがいい。そこでは常に、西部劇に「映画が」勝利する力学が働いているのだ。

 

 この映画に関しては、「トリュフォーが唯一愛した西部劇」というキャッチ・コピーが存在するらしい。たしかに、黄色、赤、青といった原色のブラウスやパンツ、そして、砂と岩と炎に映える純白のドレスなどの異様な存在感は、「ヌーヴェルヴァーグが西部劇を撮ったらこんな感じかも!」といった興味をそそりはするものの、この映画が放つ魔術を視覚的に補強するものに過ぎないのだと思う。女の一言に逆らえない意気地のない、反・西部劇的な男たち・・・彼らはやがて、「西部劇的な決闘」の舞台さえも女たちに奪われてしまうだろう。必見の名作。

 

≪Trailer≫