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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ダミアン・ジフロン 監督『人生スイッチ』

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『人生スイッチ』(Wild Tales, 2015)ダミアン・ジフロン 

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 われわれは普段、世の中の倫理や、常識や、正式に立法された公共のルールから、文書化などされていないローカルな約束のようなものまで、様々な「約束事」を建前として一応は信じ、無言の契約をみんなで締結している、ことになっている。そこを積極的に逸脱しようと思ったわけではないのに、ふと、ラインをはみ出してしまう瞬間は誰にだって多々あるはずで、それはある一定の範囲内での逸脱であれば、その都度、誰かの寛容さに助けられながら、つまり結果として誰かを怒らせたり傷付けてしまうものの、何とか元の軌道に戻ることができる。そうやって人は何とか正気を保ちながら暮らしている。人はそれを人生と呼んでいる。

 この「逸脱」に対して人がどこまで寛容でいられるかは、もちろん、一律ではない。「逸脱」によってぶつかってしまった相手方によっても異なるし、その時の気候や感情や場所や経済状況によっても左右されるだろう。場合によっては、誰かの地雷を踏んでしまうこともあるだろうし、もちろん自分が「逸脱」してきた相手にキレることだってあるだろう。人はそれを人生と呼んでいるし、日本人はこの映画を『人生スイッチ』と呼んでいる。『人生スイッチ』とは、作品がこの国に入って来る段階で付けられた、原題とはあまり関係のないものだが、それなりにこの作品の趣意を要約してはいる。この映画で人は、常に人に復讐したりされたりしているのだ。

 そう、ポップな邦題からは想像しにくいかも知れないが、『人生スイッチ』は復讐の物語である。それも、例えば『復讐は俺に任せろ』から『キル・ビル』に至るまでの作品群のように、その復讐がふと、どこかの地点で観る者にとって正当化されてしまうようなかっこいいものではなく、その行為を限りなく醜悪なものと呆れつつもどこか身につまされてしまう、情けなくて泣けてくるような復讐なのだ。 

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 映画は、オープニング・ショットでキャリーバッグを引く女の足元を捉え、スタイリッシュに始まる。女のヒールの高らかな音はどこか自慢げで、モデルとして活動しているという女の人生の順調さを言いふらして歩いているかのようだ。彼女は空港のチェックインをするところで、航空券は彼女が所属する会社が手配してくれたものらしい。この後、思わぬ復讐に見舞われることなど知る由もない女は、受付の係員に「会社が用意したチケットだけど、マイルは私に貯まるのかしら?」などと呑気に尋ねたりしている。このセコい逸話の挿入が巧く、数分のシークエンスで断片的に描かれる彼女の人間性に微妙な輪郭を与えて見せる。

 さて、無事にフライトが始まり、近くの席の男と世間話を始めると、どうやら共通の知人がいるらしいことに気付く。その知人の名に反応し、さらに周囲の乗客が「その人、私も知ってるわよ」などと話に入って来る。さらに一人、また一人、会話の輪は機内全体にまで広がる。しかも、どうやらその誰しもが、過去に浮気なり、学校の進級なり、音楽作品の評価なりで、その共通の知人に不利益を被らせた覚えがあるらしい。こんな偶然って、あるのだろうか?と不審に思っていると、偶然も偶然、その共通の知人はいままさにこの機体のコクピットにおり、入り口の鍵をロックしたきり連絡が取れなくなってしまったという・・・・・(以下省略)。

 

 こんな段取りで、自分の寛容さにタダ乗りしてきた連中の「逸脱」にキレ、彼が長年の計画の後に実行された復讐に気付かぬうちに狙われた人々や、追い越し車線をノロノロと走る車を「逸脱」とみなし、不必要に煽るという「逸脱」をして憎悪のドツボにハマっていく人々といった、「嘘みたいな本当の話」としてのホラ話が6編、テンポよく語られていく。オムニバス的な群像劇なのだが、例えば『マグノリア』のような、物語の断片が「カエルの豪雨」によって思わぬ合奏を聴かせるカタルシスや、例えば『罪の手ざわり』のような、物語の断片がその背後にある社会や人間のバグを素描していくような凄みはなく、あくまでも『ナイト・オン・ザ・プラネット』的な素朴な短編集なので、サラッと楽しんでもらいたい。

 先に水を差しておくと、映画の文体としてはそれほど新鮮味のあるショットやモンタージュがあったとは記憶してないが、例えば第2編における、カメラのヘッドではなくむしろ動かないカメラのピントを細かく移動させての語りは、人生最大の仇を前にした緊張による身体の硬直や視野の狭窄、それにめまいのようなものが読み取れたし、また、物に取り付けたと思しきカメラによる無人撮影が印象的だった。信号機などない田舎道を颯爽と走り抜ける高級車に取り付けられたらしいカメラ(第3編)が、そのコーナリングで安定した画面を維持してみせれば、結婚式会場の厨房出入り口のドアに取り付けられたらしいカメラ(第6編)は、そこを飛び出す女と男の姿を機械的に記録している。映像のニュアンスとして、それらは絶妙な緩急となっている。

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 あらすじの要約ではいかにも芸がないのだが、そういう映画なのでこのまま進めると、中でも面白かったのは、後半の3編、特に第4編の「ヒーローになるために(=Little Bomb)」と、第6編の「Happy Wedding(=Until Death Do Us Part)」である。

 まずは第4編、英題を直訳するなら「小さな爆弾」となるこの笑い話では、街中の路駐を取り締まる行政(陸運局)と、その実働部隊たるレッカー業者の業務執行に納得のいかない男との仁義なきバトルが描かれる。路駐という自分の「逸脱」を、あまりに不寛容に罰する行政の業務執行を逆に「逸脱」と見なした男は、恐らくは日本円にして数千円の反則金を大人げなく払い渋る。なんなら窓口でクレームの一つでも言ってやろうと意気込んだのが間違いの始まりで、結局は妻と子と仕事をいっぺんに失うことになる。途方に暮れる男は、就職活動中に再びレッカー業者の餌食となり、さらに逆上、出るとこ出てやるぜと徹底抗戦。何を隠そうこの男は、そこそこの大手と思われるゼネコンで、解体現場の発破を任された「爆破」のプロなのであった・・・・・(以下省略)。

 そして第6編、英題を直訳するなら「死ぬまで一緒」となる、この短編版『ゴーン・ガール』では、結婚式の当日に同僚との浮気がバレた男と、その「逸脱」を逸脱した手段で見抜いた女との仁義なき戦いが演じられ、先ほどまでEDMのチャラいビートで騒ぎ散らしていた体育会系のイケメンはやがてママの胸元で泣きじゃくり、優良株を勝ち取った気でいたのか、もはやFacebookでしかつながりのなかった中学の同級生まで呼び集めていた清楚な女は復讐の鬼となる。

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 当然、場内の空気はグダグダ、ウェディングドレスに血が飛ぶほどの騒ぎとなるのだが、開き直った新婦が会場に戻り、DJと友人らを煽って会場をダンスフロアに変えてしまう時の倒錯的な快楽を観てしまえば、誰しもが「いいぞもっとやれ、全部ぶっ壊してしまえ」と囃し立ててしまうに違いない。やがて二人の誓いのキスは、「地獄への道連れ」という契約になるだろう。でも、結婚ってそもそもそういうものかもね、という際どいユーモアが光っている。

 人生のすべてを賭してまで戦うメリットなどないはずの場面で、しかし、誰かの「逸脱」をなんとなく許せず、なんとなく引っ込めなくなって、気付いたら自分がなんとなく「逸脱」し、ポイント・オブ・ノーリターンを超えてしまうこと(=人生スイッチ)。そういうことって、多分あるのだろう。この「なんとなく」というのが重要で、だからこの映画はそもそも「共感」のための物語ではない。この非論理的な「なんとなく」を、身につまされながらも、愛すべき人間らしさとしてなんとか許容すること。そんな寛容さをサラッと、しかし傲慢に求めてくるのだから、『人生スイッチ』とはやはり、どこか逸脱した映画に違いない。