饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

クリント・イーストウッド監督『荒野のストレンジャー』

 

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『荒野のストレンジャー』(High Plains Drifter, 1973) クリント・イーストウッド

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 これはとにかく、凄まじい作品である。脚本を書いたのは、ブラックスプロイテーションの代名詞ともいえる『黒いジャガー』シリーズのアーネスト・タイディマンという人らしいのだが、発想がとにかく独創的であり、西部劇の古典を踏まえつつもそれに囚われていない。結果、イーストウッドの『荒野のストレンジャー』は、西部劇と言うよりホラー映画のような不吉な雰囲気を漂わせている。

 

 ところで、ウィキペディアに載っている「ジョン・ウェインが脚本を読んで出演のオファーを断った」という逸話が非常に興味深い。なぜなら、「この映画の町民たちは実際のアメリカ先駆者たちの精神、アメリカの偉大なるフロンティア精神を持っていない」という誇り高い批判の言葉は、ジョン・ウェインが主演した『リオ・ブラボー』(Rio Bravo, 59)の監督者であるハワード・ホークスが、西部劇の傑作と名高いフレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』(High Noon , 52)に向けたものとまったく同じだからだ*1

 

 驚くべきことに、この『荒野のストレンジャー』は、明らかに『真昼の決闘』を下敷きにしているのである。つまり、こんな感じだ。『真昼の決闘』のラストで、あの自己中でありながら一応は町を救おうとした保安官が、悪党どもに見せしめのように殺されていたとしたらどうだろう。町民たちは、ヘラヘラしながらしばらくは悪党の言いなりになり、ご機嫌を取って暮らす。だが、しばらくすれば各所から不満が募ってくるだろう。その時、大量の酒を故意にふるまい、悪党たちが酔いつぶれたところを見計らって、給料泥棒の保安官が町民に強要されることで、何とか捕まえて刑務所に送る。待っているのはせいぜいそんなストーリーだ。

 

 実際、イーストウッドはそのような見立てで、この『荒野のストレンジャー』を設計している。さらに、そこで悪党を「もう一度」町に連れ戻すのだ。数日後に、彼らは「今度こそ」町を焼き払いに来るだろう。そこに現れた凄腕のガンマン(=イーストウッド)は、町長に高いギャラで買収され、『真昼の決闘』の汚名を晴らすかのように、保安官に成り代わって町民を指導し、今度こそ町民の責任において悪党を迎え撃つべく射撃の訓練を重ねる。単純に見れば、反『リオ・ブラボー』的な反動的な西部劇がそこにあるわけだ。「いい話だなー」と思ったそこのあなた、甘い、甘い過ぎるぜ。「これでもう大丈夫だ」と観客と町民とが一斉に弛緩したころを見計らって、勧善懲悪などではありえない、悪夢のような西部劇が幕を開けるのだった・・・。

 

 それにしても、イーストウッドは西部劇にとって、味方なのだろうか。敵なのだろうか。彼は監督として何作かの西部劇を撮っているが、いずれの作品を見ても、イーストウッドが「西部劇的なもの」に対してどのような思いを抱いているのかは分かりにくく、ちょうど本作で謎のガンマンが名前を明かすことを頑なに拒むように、それはどこまでも曖昧にされている。あるいは『荒野のストレンジャー』は、「敵も味方もねえ。『真昼の決闘』も『リオ・ブラボー』も皆殺しだ!」と、西部劇の墓場から叫んでいるのだろうか。

 

≪Trailer≫ 

*1:西部劇をこれから見ようという人のために簡単に補足すると、『真昼の決闘』はこういう話だ。そこに無個性な西部の町がある。正義に燃える保安官がいる。彼が刑務所にぶち込んだ悪党が、減刑されて町に戻ってくるらしい。駅には、悪党を乗せた列車の到着を待つ兄弟たちが「早く保安官を撃たせろ!」と言わんばかりにふてぶてしくたむろしている。保安官は、町の男たちにサポートを頼んで回る。しかし、「俺たちは別に悪党の恨みを買っていない。保安官が町を出れば済む話じゃねえか」と、誰一人として協力しようとはしないのである。一方、『リオ・ブラボー』では、保安官と付き合いのあるアル中のガンマンや、足が悪い冗談好きのおっちゃんなどが力を合わせながら悪党を撃退する。