読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

デヴィッド・マッケンジー監督『名もなき塀の中の王』

f:id:cinemaguide:20151129014948j:plain

『名もなき塀の中の王』(Starred Up, 2013)デヴィッド・マッケンジー

f:id:cinemaguide:20151123115735p:plain

 

 タイトなリアリズムの筆致に思わず息を飲み、暴力で痛めつけられ、血で汚れていく男たちの身体、そして顔を見つめていると、いつの間にか映画は終わってしまった。というか、自分が映画を観ていたことを思い出した。画面への没入を促す握力はかなり高い。何か言うべきことはあるだろうか。しばし悩み、検索窓を叩いてみると、ネットにはプレスリリースのコピペまがいの文章が並んでいるようだ。皆、言葉が見つからないのだろう。筆者もそうだが、試しに「不条理劇」などとつぶやいてみよう。 

 笑わせるな、何が不条理だと、すぐさま脳内で反論が巻き起こる。確かに、未成年でありながら少年院を追い出され、刑務所の独房にぶち込まれることも、無礼な新参者として刑務所の内部で絡み合うように形成された得体のしれない権力の餌食となることも、ましてや19歳の青年が刑務所の中父親と再会することも、不条理ではあるだろう。しかしそれを言い始めるのなら、人がこの世に生まれ、生きなければならないことこそが不条理だろうと、たちまちこの映画にどやされてしまうに違いない。

 

***

 

 冒頭、移送されているバスの車内で、俯いた19歳の囚人・エリックの頭部が大写しになるのが印象的なのだが、その後、バスを降り、刑務所の中へと連行され、ケツの穴までボディチェック受け、要注意人物だと言われながら独房へと歩いていく過程でも、たびたび上半身のうち「肩から上」を捉えたショットが続いていくことに気付く。それは必ずしも表情の機微を捉えたいというわけではないようで、しばしばカメラは背中から向けられている。これが意味するところは――何かを「意味」しているとすればの話だが――今のところハッキリとは分からない。

 とにかく、「膝から上」や「へそから上」で上半身を捉えるショットがスタンダードだとするなら、『名もなき塀の中の王』におけるカメラと被写体との距離はかなり近いのだろう、ということがひとまず言える。撮影は、デブラ・グラニク監督の傑作『ウィンターズ・ボーン』を手掛けたマイケル・マクダナー。リアリズム映画でありながら、「いかにも」な手ブレやピンボケはなく、監督からも「いかにも」な長回しに指示は出ていないと見えて、『ウィンターズ・ボーン』と同じく、俳優の「熱演」に頼るだけでは終わらない重厚さがある。

 

 勘の良い人であれば察したかもしれないが、同じ映画館(地元のシネマテーク)で2週間足らずのインターバルで観たため、リアリズム寄りの映画というだけのことで、僕はこの『名もなき塀の中の王』と橋口監督の『恋人たち』を心のどこかで比べている。あの映画の中盤、俳優の期待以上の「熱演」に動揺したのか、カメラが不自然かつ唐突なズーム→クローズアップで俳優の「熱演」に興奮している様子を見せられ、その素人臭さに興ざめな思いをさせられたということもあるし、部屋に射す「光」を演出に用いるとしても、少なくともこれではダメだろう、という思いをさせられたこともあったからだ。

 俳優の「熱演」に頼るだけでは終わらない『名もなき塀の中の王』ではまた、「光」の使い方も自然である。ここでの「光」はただ、独房の格子窓から射し込む自然の「残酷さ」に過ぎないのだから。エリックがどれほど理不尽にリンチされ、父親としての行動を知らない父親に感情をぶつけられ、看視たちに自殺と見せかけて殺されかけようとも、「光」はルーティンな自然現象として「ただそこにある」だけに過ぎないのだ。実際、格子窓に射す強烈な逆光は、シークエンスの大きな切り替わりに合わせて、何度か挿入されているものの、そこへの「意味」の付与は周到に避けられているかに思える。その「光」は無意味さゆえに残酷なのだ。

 

 また、「格子」もこの映画のシンボルである。刑務所が舞台であれば当たり前だろうと思われるかもしれないが、「いかにも」な鉄格子など持たない『名もなき塀の中の王』の刑務所では、様々な「見かけ上の格子」がカメラに収まっている。回転ドアの格子、二階と一階の間に敷かれた足場の格子、あるいは階段の隙間にできる格子、独房の覗き窓やドアの隙間、残酷な光を受け止める独房の格子窓、などが繰り返し画面を縦横に分割している。そこで強調されるのは、スクリーン上に水平に広がる格子と、そこを射貫く男たちの視線、その交差の垂直性である。観客たちもまた、それ自体格子たらざるを得ないスクリーンの、上辺・下辺・左辺・右辺で区切られた格子に注ぐ自らの視線を意識化せざるを得ないだろう。

 

***

 

 多くの人が感動的なレビューを残すであろう、「エリックと父親」との関係性――アタッチメント(愛着)ゆえのデタッチメント(断絶)――や、暴力傾向に効果のあるとされる集団療法を、ボランティアとしてエリックら囚人たちに提供するカウンセラー、オリバーの孤軍奮闘ぶりや官僚的な組織との対立といったお馴染みの題材――『ゼロ・ダーク・サーティ』なんかもそうだろう――については、詳しくは触れない。その集団療法を通じて、野犬のようだったエリックが、少しずつ感情のコントロールを学び、タフに見えた大人たちも自分と同じようにキレやすい自分と必死で向き合っている姿を見ながら次第に成長していく姿などは、いかにも感動的であり、ある意味では素朴ですらあるからだ。

 あるいは、「刑務所の中での立ち回りと<父権>との闘争」というのは、例えばジャック・オーディアール監督の『預言者』なんかでも扱われていたものだし、「閉ざされた環境での特殊な権力との関係」は、全編手話の映画としても話題になった『ザ・トライブ』でも扱われていた。刑務所に代表される「閉ざされた環境もの(刑務所、施設、学校など)」は、インディーズの低予算映画が、室内劇として通常の「ホームドラマもの」と差別化を図る格好の題材ではあるのだろうが、それゆえにジャンル映画的な既視感が漂ってしまうのも否めない。主題論的な、物語論的な分析をするのなら、閉ざされた環境の中で絡み合うように形成され、監視側と囚人側とで二重化された権力の形は、ここでも定型どおりに反復されていると言わざるを得ないだろう。

 

 筆者が特に強調しておきたいのは、独房で過ごすエリックの横を静かに流れる時間を見事に視覚化した、シークエンスの変わり目に――物語の進行には直接影響しないにも関わらず――何度か挟まれる、無音の、数秒の、生活の気配のするカット群である。それらの何とも言えない、安らかなムードの素晴らしさよ。そして、映画の終盤、同様のシークエンスで沈黙が訪れるなか、どこからともなくエリックを呼ぶ声がするとき、残酷な光を受け止めていた「格子」がどのようになっているのかを見て、やはり「格子」はこの映画で象徴的な意味を与えられていたのだろうと察しつつも、その意味を語るよりは、安易な感傷に流れない演出の逞しさに痺れる思いがしたということだけ、最後に言い添えておくにとどめよう。

 

≪公式サイト≫

 

 ≪Trailer≫