饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

クリント・イーストウッド監督『グラン・トリノ』(Review)

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グラン・トリノ』(Gran Torino, 2008)クリント・イーストウッド

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グラン・トリノ』は西部劇である。1992年の傑作『許されざる者』が「最後の西部劇」と評されたことを踏まえるなら、今度こそ最後の、いわば「最後の『最後の西部劇』」である。その最新作『アメリカン・スナイパー』が、菊地成孔から藤原帰一まで多くの批評家によって――その「メタ」度にこそ差はあれ――「これは西部劇だ」と断定されたことにショックを受けた身でありながら、クリント・イーストウッドにとっての事実上の「遺書」とでも言うべきこの『グラン・トリノ』という作品が、他ならぬ西部劇の様相を呈していることに、驚きつつもどこか安堵にも似た気持ちで納得してしまうのはなぜだろうか。

 

結論だけを急ぐなら、それは、この『グラン・トリノ』が、イーストウッドフィルモグラフィーを総括しつつ、それを「反省」しているためである。いや、「反省」という言葉は相応しくないかもしれないが、他に適当な言葉が見つからないのでひとまず「反省」ということで話を進めさせてもらうが、『荒野のストレンジャー』にしろ、『アウトロー』にしろ、『ペイルライダー』にしろ、イーストウッドが監督する西部劇には、「復讐」という単純明快な、ヒロイズムを無限に正当化し得る原理が常に駆動しており、それを主題論的に、あるいは道徳的に非難することはいつでも可能ではあった。

 

また、単純に比較して、『許されざる者』は上記したような「復讐」の原理で動く物語ではなかったが、だからと言ってそれがイーストウッドにとって何かしらの「反省」であり、代わりに新たなヒーロー像を提出していたかと言うと、決してそうではないだろう。『許されざる者』でイーストウッドが演じた初老の男は、すでにガンファイトを引退し、辺境の地で人知れず暮らす堅気の農家であり、彼が乗り方すら忘れてしまった馬に再び跨り、埃を被ったガンベルトを腰に巻き付けるのは、あくまでも懸賞金を手にして苦しい生活を救おうという、もっぱら経済的な動機に過ぎなかったのだから。

 

そう、「西部のロビン・フッド」ことジェシー・ジェイムズにまつわる都市伝説(ないしは神話)として有名な、「自衛のため以外に人を殺さず、金持ちから金を奪って貧乏人に配る」という合衆国におけるアウトローの美学を継承するような余裕(あるいは生真面目さ)は、少なくとも『許されざる者』にはなかったと言ってよい。少なくとも西部劇を撮ることにおいて、イーストウッドは率先して不真面目を装い、進んで邪道を歩んできたのであり、その「道徳上の不名誉」が比類なき美しさに達してしまう矛盾においてこそ、『許されざる者』が「最後の西部劇」たる所以があったのではないだろうか。

 

グラン・トリノ』は、その生真面目さにおいて「反イーストウッド的な」西部劇であることが、ひとまずの前提になるだろう。

 

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今さらながらに確認しておくと、イーストウッドが(当時)最後の俳優業として選んだ『グラン・トリノ』におけるウォルト・コワルスキーという男は、朝鮮戦争の帰還兵にしてフォードを定年まで勤め上げた元自動車工という設定であり、デトロイトの郊外に庭付き一戸建ての家を構え、信心深い美しい妻と二人の息子に恵まれた身である。

 

こう書いてしまえば、中流のブルーカラーとして人生を全うした男の物語のいったいどこに、西部劇的な物語を招き入れる要素などあろうかと、誰しもが首を傾げるに違いない。実際、映画はウォルトの妻の葬儀の場面で始まり、場違いな服装で参列に来た孫たちと、それを許している息子夫婦らに注がれるウォルトの視線にこそ殺人的な獰猛さを認めることはできるが、そのことが強調するのはもっぱら親族間での不和といったホームドラマ的なテーマであり、ウォルトは時代遅れの「老害」として無様に突っ立っているに過ぎない。

 

しかし、一たび葬儀が終わり、ウォルトの日常――庭の芝を刈り、愛車であるグラン・トリノを磨き上げ、それを眺めつつ玄関先で缶ビールを煽ることの繰り返し――へとカメラが移ると、人は事態を理解し始める。荒廃したデトロイトはアジア系の民族で溢れ返っており、町では人種の異なる若いギャングたちが銃をチラつかせながら物騒な縄張り争いを繰り広げている。教会も警察も等しく無力な、法と正義に見捨てられた辺境の地。まさしく西部劇的な、「銃だけが正義」な舞台がそこに広がっているのだ。イーストウッドの演ずるウォルトは、さながら引退した保安官といったところであり、隣に暮らすモン族の一家と交流を重ねるごとに、その役割を重く背負っていくことになる。

 

契機となるのは、従兄が仕切る地元のギャング団に目をつけられた少年・タオが、チンピラたちの命令でウォルトのグラン・トリノを盗みに入った一件である。この時、ウォルトは無法地帯の西部ならぬデトロイトの荒廃に相応しく、ライフルの銃口をタオに向けており、以降、長年押してなかったスイッチが押されてしまったかのように、例のモン族のチンピラたちや、タオの姉であるスーに絡む黒人の不良どもに容赦なく銃を突きつけ、町の悪党どもと弱者たちの関係へと干渉し始める。そこで彼を動かしているものは、「復讐」でも「経済的な私欲」でもない、むしろ西部劇的とすら呼べぬほどに反動的な、武骨な「義」のようなものである。

 

こうしたシンプルな逸話から生じる「見た目は怖いけど本当は良い人なんだ」というウォルトが周囲に与える印象や、ツンデレ的に距離を縮めていくタオやスーとの関係性は、驚くほどの素直なドラマ表現――タオと過ごす日々は情緒的なオーバーラップで演出され、スーは憎まれ口の冗談を言い合う貴重な友人として、会話のキャッチボールを繰り広げている――であり、特に、スーの誘いで隣家のパーティーに招かれたウォルトが、大きなトラブルなく楽しいひと時を過ごす場面などは、どのようにしてこの場が台無しになるかを期待する人がいても不思議ではない穏当なシーケンスだし、結果として何も起こらないことに逆に拍子抜けする人がいてもおかしくはないほどの平和ぶりである。

 

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映画にさほど興味のない人ですら見たことがあるであろう、この『グラン・トリノ』というヒット作について、今さらネタバレがどうだと言う気もないが、その「平和」がどのように壊され、「私欲ではない」動機で介入した人間関係の中で、しかも無法地帯のデトロイトにおいて、「復讐ではない」方法での救済がどのようにして果たされるのかは、ここで改めては触れまい。むしろこの作品を久しぶりに再見して頭に浮かんだのは、アカデミー賞の主要部門をかっさらって行った、『グラン・トリノ』の前年に公開されているコーエン兄弟の『ノーカントリー』のことである。それは他でもない、『ノーカントリー』が、直訳すれば「年寄りに住ませる国はない」という原題を持っていたためだ。

 

そこでは、やはり西部劇的とも言えるロケーションの中で、やはり西部劇的とも言える追跡と逃走が――ヒッチコックなどを引用しつつ――演じられており、逸話を要約して済ませるのなら、親子代々保安官の職についてきた年老いた男が、連続殺人者が残していく死体の山と足跡を追うにつれ、ふと「最近の犯罪者の気持ちは理解できない」と途方に暮れ、引退を決意するというのが一つの「オチ」だった。設定上の時代も異なるし、生きている地域も異なるが、『ノーカントリー』のあの保安官と、『グラン・トリノ』におけるウォルトが重なって見えるのは筆者だけだろうか。アメリカはもう、彼らの知る国ではなくなっていたのである。

 

年寄りに住ませる国はない――。そんなことくらい、イーストウッドだって分かっているのだろう。『グラン・トリノ』におけるウォルトの描き方は、明らかにそうした自虐的な視線を通過したものだ。そんな風に疎外された世代として、あるいは老害として、アメリカという国からどう去るか。「他者」としてのアメリカと断絶し、そのことに絶望する以外にも何かやるべきことがある筈だ、と。そのような主題が見え隠れする点において、やはり『グラン・トリノ』は、「反イーストウッド的な」「反『ノーカントリー』的な」西部劇なのだろう。ここでの西部劇とは、混沌とした時代に必要な、新たな倫理を後世へと継承していくために創生/捏造される神話のことを指す。

 

親族よりも隣家のモン族と交流し、血縁や人種という「タテ」の連なりではなく、友情や互いの尊敬というもので担保される曖昧な「ヨコ」の連なりを描き、本来であれば孫に当たる世代の少女から「あなたが父親だったらよかったのに」と言わせること。そう、『グラン・トリノ』では、世代や人種をまたいだ対話(=継承)が、大いなる諦念とかすかな願いとともに――新たな倫理を物語るために――描かれているのだ。もっとも、それは多くの西部劇(=神話)がそうであったように、細部の諸要素を単純化することで成り立つものでもある。トヨタの営業職にしてランクルを乗り回す裏切り者の息子、裕福だが非常識な唾棄すべき孫、貧しいが真面目なモン族の愛すべき少年少女、安心して銃口を向けることができるチンピラども。それらは、決してそれ以上のものとしては描かれないのだから。

 

実際、こうした単純化という点で『グラン・トリノ』を冷やかすのはあまりに容易い。『荒野のストレンジャー』や『許されざる者』を倫理的に、道徳的に批判するのがあまりにも容易かったように。それらは神話を語るために準備された「都合のいい」設定である。とは言え、世代や人種や血縁や性別を超えた「対話(=継承)」の可能性を描きつつ、一方では「断絶」がここまで色をハッキリと分けて(単純化されて)描かれるあたり、逆説的に、根っこにあるのは絶望でしかないのだろうとも思える。つまり、150分かけようが、180分かけようが、おそらくここでの「断絶」はこうとしか描きようのなかったものなのだ。そう思うと、なかなか泣けてくる。

 

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最後に繰り返しておく。

 

西部劇の神話におけるアメリカの幻像としてではなく、西部劇が終わった後のアメリカにおいて、それでも神話(のようなもの)を語り継ぐこと。混沌とした時代に必要な、新たな倫理を後世へと継承していくために、新たな神話(=西部劇)を創生/捏造すること。『グラン・トリノ』とは、その意味においてのみ西部劇「的」なのである。少なくとも筆者の知る限り、イーストウッドがここまでの生真面目さで西部劇を撮ったことはなかった筈であり、その一点においてのみ、冒頭で先取りしたイーストウッドの「反省」を認めることができるだろう。アメリカは終わったが、ここから始まるアメリカもあるのではないかと、『グラン・トリノ』は問いかけているし、ある種の単純さを引き受けながらも、むしろその単純さゆえに、120分に収まる粗い神話(=最後の『最後の西部劇』)たり得ているのではないだろうか。

 

 

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