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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

リューベン・オストルンド監督『フレンチアルプスで起きたこと』

リューベン・オストルンド 2015-2019 ★★★★

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『フレンチアルプスで起きたこと』(Force Majeure, 2014)リューベン・オストルンド

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山の斜面にたまっていた大量の雪や土砂などが、下層部のゆるみが原因となって、激しい勢いで次から次へと崩れ落ちること。――新明解国語辞典三省堂

 

真っ白なゲレンデを舞台とした、黒い喜劇。誰しもが根底的には拭えていないであろうジェンダーや、そこから派生する性役割を勝手に押し付け合い、勝手に傷つけあう様子は、冬に観ずともわれわれを凍えさせずにはおかないだろう。思えば、冒頭のシークエンスから、というか、(冬の映画なのに)初めてアントニオ・ヴィヴァルディの《夏》が流れる時点でどこか異様なのである。ゲレンデのカメラマンに営業をかけられ、一度は断ったものの注文通りのポーズを決めていくその四人家族を見つめるカメラは、その時点でどこかほくそ笑んでいるようであり、まんまと罠にかかった獲物の呑気な様子を、笑いをこらえながら見つめているようなのである。

 

この時点で本人らは「その後の運命」を知る由もないが、まんまと罠にかかったのは、仕事中毒の父・トマス(ヨハネス・バー・クンケ)を、母・エバ(リサ・ロブン・コングスリ)が説得し、二人の子供・ヴェラとハリーを連れて5日間のバカンスにきた仲睦まじい四人家族である。四人は早速、こなれた動作で雪の斜面を仲良く滑り降りるのだが、その様子をともに斜面を移動しながら平行に/等速に写し取るショットが、ほとんど振動もなく滑らかなことにまず驚かされる。しかし、四人が仲良く並んで滑るショットは(記憶が正しければ)これが最初で最後である。二日目に「それ」は起きる。

 

未見の人も多いだろうから詳しくは書かないが、トマスが家族全員の前で「ある失態」を犯すのである。正確には、「それを失態と呼ぶのかどうか」そのものが問題であり、冒頭に書いた「ジェンダーやそこから派生する性役割」についての問題というのもそういうことなのだが、それはひとまずそれは置いておく。重要なのは、ジェンダーの専門家を招いたテレビの討論番組などではない、公平な裁判官がいる筈もない普通の家族の普通の日常において、つまり建前としては「父」なり「母」の役割を内面化し行動化することが求められる場面で、トマスは「父」であることに失敗するのである。

 

それはちょうど、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の傑作『自転車泥棒』で、自転車を盗まれた失業者の「父」が、息子の目の前で他人の自転車に手をかけ、路上で取り押さえられる時の屈辱であったり、デルマー・デイヴィス監督の侮りがたい西部劇の佳作『決断の3時10分』において、牧場の牛がいなくなっていることに気付いた「父」が、息子たちの目の前で、殺されるよりはマシだという理由で群盗どもの乱暴狼藉を見逃すことの屈辱などと(程度やニュアンスの差はあれ)同種のものだろうと思う。字幕では「携帯」となっているが、役者たちは間違いなく「iPhone」と呼んでいる電子機器が画面に映っていることから、ほとんど同時代のゲレンデが舞台なのであろうこの『フレンチアルプスで起きたこと』において、「父」はネオレアリズモや西部劇の時代と変わらぬ「父権の喪失」なる屈辱にひれ伏すのである。

 

映画はその後、「それ」を蒸し返そうとするエバと、「それ」をなかったことにしようとするトマスとの攻防、互いに譲らぬ泥仕合となる。「第1セット」は、レストランでの会食のシークエンスであり、非常に見ごたえがある。トマスとエバは、出会ったばかりの別のカップルと夕食に臨み、席に付くのだが、特定のパートナーがいつつも意気投合したというそのカップルの背景には、レストランの場内とそこでにぎわう人々を捉えた深い奥行きがあり、一方、壁際に座ったこちらの二人(トマスとエバ)の後ろにあるのは、ガラスの壁が周囲の様子を反射させた「鏡の壁」が迫っているのである(この〈鏡〉に仮託された機能については後述する)。

 

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そこで、例の「ある失態」についての話が何気なく切り出されるのだが、トマスとエバでは話が微妙にかみ合わず、同席した二人にも気まずい空気を吸わせてしまう。しかしエバは引かず、「あなた、父親失格だったよね?」という会話を始めかけたその瞬間、別のテーブルで誕生祝が始まり、二人のわだかまりは引き伸ばされていく。「その後の人生をも左右しかねない会話が、誕生日ケーキの入場によって水を差されることもある」という喜劇的なリアリズムに助けられた格好だが、二人の心理をめぐる物理的な演出も、これによってさらに強調されている。一方では祝福のムードに包まれた別のテーブルの活気が深い奥行きとともに何気なく挿入されるが、トマスとエバの後ろには、鏡でもガラスでもないその曖昧な壁が、不確かな反射を繰り返すのみなのである。

 

また、どうにかこの修羅場がやり過ごされると、すでに寝落ちしつつある子供を連れて部屋に戻る二人を後ろから捉えたショットが続き、次のショットでは、さながら怪奇映画の様相で、カメラはゆっくりと「寄り」ながら、その部屋・413号室のドアを捉える。やがてドアが開き、二人が出てくる。そこで「第2セット」開始である。「雪崩が起き、怖かったが全員無事だった、起こったのはそれだけだよね」と確認し合い、「水に流そう」ということで二人は夫婦の、というより単に事務的な「大人の」抱擁を交わす。しかし、その抱擁はまたしても水を差され、二人は部屋に戻れなくなる。「その後の人生をも左右しかねない抱擁の余韻が、カードキーの故障によって水を差されることもある」のである。

 

次に挟まる、ゲレンデに向かうバスを捉えた、上空からの超俯瞰ショットが素晴らしい。単純にロケーションの勝利とも言えるが、映画の冒頭と同じく、その怪奇映画的な寒々しさは、あるいは極度の沈黙は、罠の入口へと着々と近づいている次なるカップルが、確実にそこに「ハマる」までを見届けているハンターの視線なのである。実際、トマスとエバの喧嘩に巻き込まれ、その後「男らしさ」「父らしさ」をめぐってカップル内にも「飛び火」することになろうとは、この時点で知る由もない髭の男・マッツ(クリストファー・ヒヴュー)と、その若い恋人ファンニ(ファンニ・メテーリウス)は、呑気に乳繰り合い、ホテルの廊下で「おっぱじめる」ことも辞さない勢いなのだ。

 

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このマッツとファンニを巻き込んでの「第3セット」はマジに恐ろしい。ジョン・カサヴェテス監督の傑作『こわれゆく女』での伝説的な会食のシーンも多少は参考とされているのだろうか、圧倒的に気まずい空気の中に役者を置き、「この気まずさに出口などあるのか?」と役者にも観客にも思わせてしまうようなグダグダが執拗に続く。そして、それもまたある出来事と衝撃的なショットのカットインで「水を差される」のだから、この映画の「遅延」ぶりはまさに徹底されている。その詳細は観ていただくのが一番だが、一応の絆で結ばれていた筈の家族が一瞬の出来事を契機にグズグズになり、その後のバカンス数日と、周囲の人間関係にまで影響を及ぼしていく様は文字通り「雪崩」式である。

 

冒頭に引用した辞書的な定義に戻ろう。雪崩とは、大量の雪や土砂などが、「下層部のゆるみ」が原因で崩壊することであるが、その「下層部」が何であったかは、公式サイトからいくつかのコメントを抜粋すれば足りるのでそれで済ますこととしよう。

  

男たちよ、泣き喚き、そして叫べ!

僕たちは、女らしさだけでなく、男らしさの神話からも自由になるべきだ。

(田中俊之さん)

  

家族が期待するように夫は「男らしく」いられるのか。スウェーデン映画で「男らしさ」が主題となり世界的に反響が大きいということは、「男らしさの減退」が世界共通の悩みということだ。

(森川友義さん)

  

われわれは、理論の発達とは別に、日常生活において、「父」であり「母」でありながら、それでもジェンダーや、社会が想定する性役割から完全に自由になることはできるのだろうか。

 

その疑問をただ傍観し、鳥瞰していることは許さないとでも言うように、この『フレンチアルプスで起きたこと』においては、洗面所の鏡を前に、家族や夫婦で歯磨きをするショットが少なくとも三度は繰り返されるのだが、鏡越しに人物たちと正対したショットがわれわれに訴えかけるのは、そこでの人物らが交換する視線のやり取りや、その遮断(=ディスコミュニケーション)そのものというより、「鏡にカメラが映っていないこと」によって、つまり「ある筈の視線がないこと」によって、われわれ観客の視線が宙づりにされることである。

 

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そう、洗面所の鏡を前にしたショットのあいだ、つまり一日の出来事を家族のそれぞれが反芻するあいだ、われわれは特権的な視線を劇中の人物たちに浴びせることができないのだ。逆に、本来であればこちらを正視することなどそうそうない映画のカメラへ、それとなく鏡越しで登場人物たちから視線が投げかけられるとき、われわれは「視られる」側と立場を変更することを余儀なくされ、家族たちの反芻のなかに組み込まれ、トマスとエバとが巻き起こす「雪崩」へとただ無力に巻き込まれていくほかないのである。

 

そして、、、映画には盛大な「オチ」が付いている。

 

様々な次の「試練」が男たちを襲うのだが、すでに「男らしさ」や「父権」の喪失に絶望していた男たちはここぞとばかりにハッスルし、「もう理論もジェンダーもへちまも言いません、ただ男らしくいさせてください!」と懇願するように、騎士道精神に則り、再び「男らしさ」を強く内面化していくのである。しかし、この時の「母」の行動を決して見逃すことなかれ。これぞ最後の、決定的な「雪崩」である。

 

つまり、要約するなら「人の(不可抗力による)本能を笑うな」という映画になるわけだが、最後にはもはや誰しもが共犯者だという表情での開き直りの大行進が行われるのだから、呆気にとられつつもただゲラゲラと笑うしかない。あるいは、あなたもわたしもその「敗者の大行進」へと加わりながら、ということになるのだが。そしてたった一人の「勝者」は、本能で生きていることをエバに厳しく非難されていたその「勝者」は、捨て台詞もなくただ他の全員を、恐るべき沈黙をもってあざ笑うかのように、その場を去っていくのだった。 

 

≪公式サイト≫

 

≪Trailer≫