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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

セバスチャン・コルデロ監督『エウロパ』

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エウロパ』(Europa Report, 2013) セバスチャン・コルデロ

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インターステラー』か『ゼロ・グラビティ』を見直し、気分が乗ればブログにレビューでも書いてみよう、何ならそれで多少のアクセスを稼ぎたい、などと思っていた筈が、レンタル屋で借りたのはこの得体のしれぬ『エウロパ』なる映画であり、全体の3分の1を観たあたりで離脱してもよかったのだが、ランニングタイムが90分程度ということもあって、あれよあれよという間に最後まで観てしまった。お世辞にも傑作というわけにはいかないが、これはこれでコメントすべきことがあったように思うので、以下に雑感をまとめてみたい。

 

まずはこの、低予算ながらもあえて宇宙モノにチャレンジした映画の少なからぬ勇気を称えたい。それは単に、羞恥心の無さからくる怖いもの知らずの粗相と扱うべきなのかもしれないが、『インターステラー』や『ゼロ・グラビティ』の10分の1以下の予算で勝負に出て、5,000分の1以下の興行収入しか得られなかったという話を聞けば、自ずと弁護に立ちたくなるのが人情というものである。とは言え、それは決して勝算があってなされる弁護ではないのだが。

 

なお、『ピッチフォーク』傘下の(閉鎖してしまった)映画批評サイト『ディゾルヴ』は、10点中8点の評価を与えているので、必要に応じて参照されたい。

 

thedissolve.com

 

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まず、この映画が低予算ながらに工夫を凝らした点として、後期ゼロ年代的な「疑似ドキュメンタリー」の手法を宇宙モノへと持ち込んだことが挙げられるだろう。画面に映る映像は、いずれも「記録用として事務的に撮影された演出なしの生映像」という体裁になっており、具体的には、①宇宙飛行士たちの肩にマイクとともに仕込んだ活動記録用の小型カメラか、②宇宙船内の何カ所にも設置されたこれまた活動記録用のカメラか、③船員が持ち込んだやはり活動記録用のハンディカメラによる映像、ということになっている。また、船外での活動時に装着するヘルメットにも、④宇宙飛行士の体調をモニタリングするための小型カメラが顔面に向けて仕込まれており、基本的にはこの4種類の映像のつなぎ合わせ、ということになる。

 

すでに察しがついてしまうように、②と③のカメラは物理的に船外に出ることはできず、また、④のカメラは宇宙飛行士の顔面を超クローズアップしか撮ることができないので、宇宙モノに挑んだ筈の『エウロパ』なる映画は、科学的にも生物の存在する可能性が高いとされる木星の衛星「エウロパ」の実地調査を人類史上初めて行う、という壮大な設定にも関わらず、そのモンタージュの理論的な帰結として、必然的に「室内劇」に終始せざるを得ないのだ。宇宙船が当初予定していた着陸地点から外れてしまった結果、船員が「エウロパ」の地表に出る必要が生じたにも関わらず、映像の比率は①よりも④のカメラが多いため、観客は超クローズアップされる船員の表情から、驚きや感動や恐怖といった感情を義務的に読み取っていくほかないだろう。

 

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すでに「弁護」と呼べる内容の文章ではなくなってしまったが、特に注釈なく用いた「疑似ドキュメンタリー」の手法について、くどいようだが改めて考察を加えておく。これは大雑把に言って――多くの場合低予算映画が――映像の「真実らしさ」を水増しするために重宝してた(ている)手法である。便宜的な整理として、映画の画面に宿るリアリティを増幅したいという考えに立った場合、「何を撮るか」、「どう撮るか」、それらを「どう編集するか」という点で工夫の余地が生まれる。低予算映画は、「何を撮るか」、つまりカメラの前に用意する被写体にお金をかけられないので、その穴埋めを次の「どう撮るか」に求めたのだろう。それはかつて、「手ブレ」や「長回し」で映画の生々しさを取り戻した作家たちの工夫と同種のものであったと言えるかもしれない。

 

こうした工夫にさらなる改造(改悪?)が施され、行くところまで行ってしまったのだとわれわれが(少なくとも筆者が)知ったのは、2008年の『クローバーフィールド/HAKAISHA』だったと言って差し支えないだろう。サプライズで用意したホーム・パーティーを記念として撮影していた参加者の手持ちカメラが、未確認生命体による襲撃を受けた大都市の路上へとそのままなだれ込んでいく、という設定であり、そこで重視されているのは「神の視線」による映画の審美性に堪える映像ではなく、とにかく「状況上、撮影された根拠のある映像」なのである。つまり、神の視線を借りて映画の世界を「盗み見る/覗き込む」のではなく、必然的に残されたと状況的に納得できる映像を「正当な権利でもって正視する」のだ。

 

そういう意味で言えば、この『エウロパ』なる映画は、すでに確認してきたように、この「必然的に残されたと状況的に納得できる映像」の領域を更新するものではない。むしろ、「どう撮るか」に続く最後のステップ「どう編集するか」にまで手を伸ばしてしまっているという点で、映像の「真実らしさ」と逆行してしまう形で、「これは鑑賞用に再編集された映像なのだ」と、観客がメタ認識してしまう仕掛けになっているのである。具体的には、上記の①~④の映像に加えて、⑤地球で待機している宇宙事業部のメンバーたちによる記者会見的な映像と、⑥として②と④の映像が同一の画面を二分割ないしは四分割して同時に映される映像が差し込まれているのだ。

 

しかも、それらの映像群が時間軸を前後させたデクパージュとして編集されているため、個々のショットの持つ状況的なリアリティからは離れて、メタ的に、「これは《必然的に残されたと状況的に納得できる映像》を恣意的に再構成したものなのだ」と、観客はことあるごとに我に返ってしまう。それは、「どう撮るか」に託されたドキュメンタリー性と、「どう編集するか」によって生じてしまうフィクション性との乖離によって、かえって全体を作り物に見せてしまっていると思う。つまり『エウロパ』は、「疑似ドキュメンタリー」ではなく、「疑似ドキュメンタリーTV番組」になってしまっているのだ。その残念さは、ヨハン・シュトラウスの《美しく青きドナウ》を引用してみたところで晴らされるものではないのは当然である。

 

≪Trailer≫