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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

マシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』

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カルテル・ランド』(Cartel Land, 2015)マシュー・ハイネマン

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(武器保有権)

 規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。

 ――アメリカ合衆国憲法修正第2条

 

 機能しない「法の支配」への苛立ちと、その不完全さを補完すべく行使される「自力救済」によって、荒野に生きる人々が国家に頼らず自らの手で倫理や正義を選択していく姿――まるで西部劇だな、と思った。保安官なんていようといまいと構わない。銃さえ持てば、そこでは誰しもが自分の信じる「正義」を語り、執行することができるのだから。

 実際、映画の冒頭では、メキシコとアメリカの国境や、彼方に広がる地平線、あるいは人びとが暮らす小さな家々を捉えたショットなどがモンタージュされ、そこに祖国・アメリカを守るべくして立ち上がった男の「開拓時代の西部と同じさ」というモノローグが重なるのだから、時代感覚が失せたような気がしてクラクラ眩暈がする。声の主は、さらに、われわれに同意を求めてみせる。「あなたならどうする?」と。そしてこれは劇中を通して投げかけられる問いでもある。「無法者たちが明日にでも、家族と財産を奪いに来る。政府や警察はもちろん、助けてくれない。殺されるのを待つか、銃を手に戦うか。あなたならどうする?」と。

 もちろん、現代のメキシコ麻薬戦争を追ったドキュメンタリー映画たる『カルテル・ランド』が、半世紀以上も前に映画史から滅び去った西部劇の子孫であるはずはない。が、少なくとも物語論の水準で言えば、西部劇との比較が多くのヒントを与えてくれることもまた明白である。何が西部劇と同じで、何が違うのか。以下、検討してみよう。

 

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 まず、議論のためにあえて単純化して言えば、西部劇とは、「法の支配」の及ばぬ荒野において、保安官による制裁ではなく無法者のガンマンによる「自力救済」によって倫理や正義が執行されていく映画であったが、それは同時に、「法の支配が不完全な荒野において行使される俺の自力救済は、常に倫理的に勝利している」という圧倒的な自己信頼感がもたらす勧善懲悪的な、善悪二元論的な安心感が保障された、倫理的に「段取り」済みのヒーロー映画でもあった。(ジョン・ウェインが出てくれば、その役柄がいかに町の嫌われ者であろうと、ヤクザな荒くれ者であろうと、観客は彼の倫理的勝利を信じて疑わないだろう。)

 一方、『カルテル・ランド』の描く世界――というか、この現実世界そのもの――で町民たちの行使する自力救済は、西部劇的な爽快さとは似ても似つかない「苦しさ」に満ちている。アメリカへの麻薬密輸、その拠点とすべく無法集団によって実力支配された国境付近の町は政府に見捨てられており、町医者を中心に組織された自警団は最初、法の支配の不完全さを補完する存在として非常に有効に機能しているかに見える。実際、町医者にして自警団のリーダー=ドクター・ホセ・ミレレスは、その演説の巧みさからロック・スターのような人気を集めており、どこに行っても喝采で迎えられるカリスマ的存在だ。

 しかし、当然のことながら、組織が巨大化すれば様々な歪みが生じてくる。そしてそれこそがこの映画の主題たり得ていく。端的に言って、法の支配を補完するつもりで立ち上げた自警団による自力救済が、理論的にも実力的にも、法の支配を超えてしまうのである。実際、軍や警察との衝突は度々カメラに収められており、特に、「軍や警察が仕事をしないから俺たちがやるぜ」という役割のはずの自警団が、遅ればせながら到着した軍隊を住民たちの支持をもって追い返してしまう場面は象徴的だ。法の不在を補完するつもりが、かえって助長してしまう悪循環。極めつけは、メキシコ政府による「自警団の警察化」という提案をめぐり、組織が決定的に分断されていく終盤の政治的な駆け引きである。

 

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 ここまで言えば、大抵の人は気付くだろう。この構図は、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』と完全に一致する。もっと言えば、それはアメリカ合衆国憲法レベルで国民に容認している「自由な国家の安全」のための武器の保有・携行の権利と、それゆえに進まぬ銃規制のジレンマといった問題の相似形である。この点に限って言えば、『シビル・ウォー』において国連やアメリカ政府からの提案を蹴ったキャプテン・アメリカ側のチームにしろ、『ボーダーライン』において超法規的な特殊部隊を組織するCIAにしろ、この『カルテル・ランド』における自警団にしろ、同質のものである。(もちろん、『ダークナイト』において市民の全通信情報を独断で監視下に置いたバットマンも。)

 もっとも、『キャプテン・アメリカ』のシリーズは基本、その第一作を『ロケッティア』のジョー・ジョンストンが監督していることにも象徴されるとおり、極めて二十世紀的な題材――加藤幹郎風に言えば、国家間の覇権競争、イデオロギーの相違や経済的利害、あるいは個人的憎悪とかそういうもの―――に拘泥する映画であり、『ロケッティア』よろしくナチス系列の秘密組織=ヒドラとの対決(!)が未だに根底に残っている時点でもビックリなのだが、まさに先述した覇権競争や経済的利害を目的とする悪党を過去の単独シリーズで倒してきたアイアンマンとキャプテン・アメリカとの対決理由が、自由な国家の安全という導入からはかけ離れた個人的憎悪(親の仇!友情!)のレベルに収斂していく過程はほぼ、メロドラマ的である。 

 それは、日本版の広告に打たれた「友情が、友情を引き裂く――」なるコピーがすべてを物語っていなくもないが、問題とするならばやはり、『ボーダーライン』における「その善悪に、境界(ボーダー)はあるのか――」や、『カルテル・ランド』における「正義が揺らいでも、悪は揺るがない」というコピーの方だろう。実際、これらが有効な問いかけであるのは確かだ。事実、巨大化する無法状態の麻薬カルテルにしろ、それを超法規的な作戦で攻撃するCIAにしろ、それをメキシコ側で食い止めようとする自警団にしろ、アメリカ側で食い止めようとする国境偵察隊にしろ、法の支配を受けていないという点では同質な存在なのだから。

 

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 宇野常寛風に言うと、しかしこれらの問いかけの有効性は一面的なものでしかない。なぜなら、これらの問いかけはそもそも「善悪に境界(ボーダー)がある」という前提で生きている人にしか通じないものなのだから。宇野による一連のコンテンツ批評、特に「『ダークナイト』と「悪」の問題」を一応、引用しておくと、 

現代における正義(=正当性)は常に、究極的な無根拠を織り込んだ上で特定の物語を選択するある種の決断(=賭け)としてのみ成立する。なぜなら、その正義を保証する秩序だった価値体系など、もはや世界のどこにも存在しないのだから。あとは、自分が正義として決断した物語にどう責任を取るのか、という物語への態度の問題が残されているだけだ。

ということになるが、もちろん、「正義を保証する秩序だった価値体系」とは、主権国家においては憲法や法律であり、それらの価値体系には議会を通じて民意が間接的に反映されている。それが一応、建前だとしても、民主主義のシステムということになっていて、われわれは最低限、それを信頼することで社会に参加している。

 

 宇野の言説に引き寄せて、ここまで述べてきたことを総括することは、たしかに不可能ではない。巨大化する無法状態の麻薬カルテルを超法規的な作戦で攻撃するCIAにしろ、カルテルの無法ビジネスをメキシコ側で食い止めようとする自警団にしろ、アメリカ側で食い止めようとする国境偵察隊にしろ、あるいは架空の現代社会で国連やアメリカ政府からの提案を蹴ったキャプテン・アメリカ側のアベンジャーズ・チームにしろ、究極的な無根拠を織り込んだ上で特定の物語を選択する決断主義的な集団に変わりはない。「誰もやらないなら俺がやる」というヒロイズムにある程度、取りつかれているのだから。

 さらに言えば、暴力の行使を「生存のため」と合理化し、徹底的に自己目的化した存在である麻薬カルテルは、宇野風に言うなら「ジョーカー的存在」である。彼らの行動は、おそらく彼ら自身にも止めることができない。一方では、皮肉なことに、自警団や、国境偵察隊の面々が己の行動の正当性をカメラに向かって、あるいは市民に向けて饒舌に語れば語るほど、むしろそのドラマティックさ(=陳腐さ)ゆえに空転しまうのは残酷なまでに対照的である。結局のところ、彼らは完全には決断しきれておらず、理論的にも感情的にも他者からの共感や承認を必要とする「脆い」存在に過ぎないのだ。引き立つのはただ、麻薬カルテルの徹底された自己目的性ばかりである。

 クライマックスとなるのは、自警団がその行動範囲を広げ、ある町へと進出した時の広場での演説シーンである。「お前ら無法者の集団を支持したら、この町は終わりだ」と、この映画に登場する人物の中でもっとも「真っ当な」見解を述べる男性市民の声は、自警団からすればヒロイックな決断主義によってとっくに「消化済み」の内容、つまり「最初に議論しておくべき事項」であるにも関わらず、自警団の広報担当者は有効な反論を繰り出すことができない。宇野風に言えば、それらが組織内でしか流通しない「ローカルなイデオロギー」であることがまざまざと露呈するのである。もちろん、その男性市民の声それ自体も、「法の支配」の及ばぬ西部の荒野では虚しい空論たらざるを得ないのだが。

 

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 ここに来てようやく結論的なパートに達することができるのだが、筆者は何も、宇野常寛の用意した議論がどのように展開可能なのかを確かめたかったわけではない。この映画を観て筆者が素朴に思ったことは、正義だの悪だのが相対的な価値にしかならなくなっている、それがコンテンツ上の描写内で確かめられる、などということではなく、極めてシンプルに申し上げて、「国家とはいったい何なんだろう?」という根本的な疑問である。そう、この映画――というか、繰り返すがこの現実世界そのもの――で消失しつつある境界(=ボーダーライン)とは、比喩ではなくあくまでも文字通りの「国境」なのではないか。そんなことを思ったのである。

 おそらく、それは今、IS(=イスラーム国)の台頭とともに指摘されている社会の綻び、「統治されない空間」の問題とほとんど一致するはずだ。違いがあるとすれば、そこにつけ込むのがテロ集団か麻薬カルテルかという程度のものだろう。モンテビデオ条約第1条は国家の要件を次のように定めているが、 

(国家の要件)

 国際法人格としての国家は、次の要件を要する。

  a 永久的住民

  b 明確な領域

  c 政府

池内恵の指摘するところによれば、辺境地域における「統治の不全」に乗じ、無法者の集団が「領域支配」する地域が出現しているという。『カルテル・ランド』が切り取る国境付近はどうか。言うまでもなく、雄大なロケーションで幾度となく映される国境は、アメリカとメキシコを隔ててなどいない。「国家と非国家」とを曖昧に隔てているのだ。 

 もちろん、事態はそれほどまでに衝撃的でも致死的でもないのかもしれない。映画の最後には様々な陰謀論を誘発しかねない「オチ」が付いており、当地で国家や法による統治が及ばないのは、政府上層部による確信犯的な放置なのかという気もしてくる。しかし、仮にそれが陰謀による「段取り済み」な見かけ上のものであっても、21世紀の今日において、これほどまでにあっけなく国家や法の支配が弱体化してしまうものなのかという鈍い衝撃は拭えない。繰り返すが、これは善悪論ではない。もっと根源的な問いかけを十二分に含んでいる。極めてグロテスクな映画、そして現実だ。「無法者たちが明日にでも、家族と財産を奪いに来る。政府や警察はもちろん、助けてくれない。あなたならどうする?」というあり得ないほど野蛮な問いかけが、今後、どの国家でも現実のものとなっていったりするのだろうか。