饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ペイトン・リード監督『アントマン』

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アントマン』(Ant-Man, 2015) ペイトン・リード 

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ヒップスターはアウトローの代用だ。ヒップスターというのは、毒抜きした犯罪者であり、犯罪を犯さずに犯罪へと近づくものだ。

――ジョン・リーランド著『ヒップ――アメリカにおけるかっこよさの系譜学』より

 

アントマンは、ヒップスター……ではない。そこまでのタマではない。しかし、誰しもが何かしらの使命なり運命を背負い、その「深刻さ」ゆえに観る者を無用な疲労感へと誘いがちな一連のマーベル作品の中にあって、前科者であるはずのアントマンがどこか「許せる」存在なのは確かだ。極めて素朴な議論になるだろうが、なぜアントマンは「許せる」のか、そこから始めてみたい。

 

結論から言えば、前科者「なのに」許せる、のではなく、前科者「だからこそ」許せる、それがアントマンなのだろう。彼には、アメリカにおけるヒップの美学がごく微量に含まれており、ディズニーやマーベルといった大資本のなかで十分に毒抜きされているとはいえ、例えばジェシー・ジェイムズ――西部劇における定番である――などの系譜に彼を連ねてみたくなる、そういった存在なのである。

 

その男、スコット・ラング(ポール・ラッド)は、勤務していた企業の暴利を告発し、システムをハッキングし、企業の蓄えを元の顧客へと戻すという、なんとも粋な罪を犯し、投獄されている。その実態は詳しくは語られないが、察するに、企業の蓄えは違法になされたものではないはずだ。「黒」ではないが「グレー」な、合法の手段で稼がれたその蓄えを許すことのできない人物として、彼の背景はひとまず素描されている。

 

ここには、合衆国の素朴な神話がある。富める者から奪い、貧しい者に分け与えるというある種の倫理のようなものは、ジョン・リーランドが上記の『ヒップ』で整理するところによれば、義賊の父、ロビン・フッドからジェシー・ジェイムズに至る系譜に連なるものと言えるだろう。そう、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』とともにマーベルのスクリューボールと目される『アントマン』は、実のところ、合衆国におけるヒーロー像の上ではむしろ正史、ど真ん中の直球でもあるのだ。アメリカには、尊敬される犯罪というものがあるのである。

 

だから、『アントマン』は、資産家の主人公がアメリカの――もしくは、世界/セカイの――より良い「統治」を考える『ダークナイト』や『アイアンマン』が振りかざす「超正義」とは根っこが違うと言うべきだろう。ボブ・ディランが西部のならず者を歌った《Outlaw Blues》になぞらえて言えば、「俺の見た目はアイアンマンかもしれないが/気持ちはジェシー・ジェイムズなんだ」、といったところか。実際、アントマンは劇中でトニー・スタークの敷地に侵入し、アベンジャーズ構成員の警備を見事に(間一髪で?)かいくぐって見せる。

 

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もちろん、この調子でアントマンジェシー・ジェイムズ並みのヒップスターに仕立て上げたいのではない。スコット・ラングがいわゆるションベン刑を終えて出所し、「兄弟」がそれを出迎えてくれるという「お約束」で始まりはするものの、『アントマン』は、ヘンリー・キング監督の『地獄への道』(1939)や、フリッツ・ラング監督の『地獄への逆襲』(1940)といった「ジェイムズ兄弟もの」や、その他数多の西部劇と同じような古典的原理で駆動する物語ではないのだ(劇中でも、アイスクリーム屋の店長との会話で、そうした「素朴さ」はひとまず否定されている。彼は権力や上流階級、大企業への仕返しに燃える男ではないのだ)。

 

その手の映画――邦画で言えば、実録任侠ものとか?――で、男たちは何を原動力にしてきたかというと、乱暴にまとめるなら「仁義」か「契約」である。西部劇における契約については、蓮實重彦の小論〈サム・ペッキンパー、または契約者の自由と不自由〉に詳しいが、要するに、それが文書化されている/いないかの違いを取っ払えば、ある「約束事」のために男たちは戦ってきたのだ。蓮實によれば、そうした「約束事」は、「正義と悪といった倫理的な価値観や宿命の対決といったメロドラマ的構図を同時に破棄すべく」機能していた。

 

アントマンの戦いへの動機付けは、そうした批評性を伴うものではない。彼はヒーローであるどころか、すでに次のパートナーを見つけた元妻に見放され、愛する娘の養育費を捻出したい、「ヒーローになりたい~ただ一人君にとっての~」という、J-POPの歌詞のようにベタな、「あくまでも個人的な尊厳」のために意地を見せる、ただそれだけの寂しい男なのである。もっと言えば、原子間の距離を自在に縮小し、ミクロ人間に変身できるスーツを着た彼は、その能力を使って元妻の家に侵入し、娘の寝顔を見に行ってしまうような男なのだ。

 

だからアントマンが、周囲の科学者たちが演ずるパッとしない前世紀的な陰謀や野望――マーベル映画でお馴染みの軍事産業の制覇とか、世界の秩序維持とか、天才同士の私怨とかそういうもの――に契約もなしに加担させられていく危うさは、モヤモヤしつつも指摘せずにおこう。一見、アントマンは契約や仁義といった不自由さからも自由なように見えるが、だからと言って正義と悪といった倫理的な価値観や、宿命の対決といったメロドラマ的構図を破棄できてはおらず、娘の部屋でそれまで会ったことも話したこともない相手と「宿命の対決」に臨むとき、彼は素朴にそれらを代行「してしまっている」構図なのだ。ここの評価には一定の留保が必要だろう。

 

また、特殊なスーツを着込み、縮小と膨張を繰り返しながら戦う男の物語、という点では、あの謎のズームを得意とするエドガー・ライトが、やはり撮影文法的にも適任だったのではないかと思わなくもないけれども、『アイアンマン』を基調に、『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』的な蟻の接写と蟻の軍隊、地べたからの目線で繰り広げられる『トイ・ストーリー』的な冒険活劇、量子世界における『インターステラ―』的な脱出劇などを貪欲に取り込み、『アントマン』は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に次いで、2010年代におけるマーベル映画の好調維持に貢献したのは間違いない。

 

とは言え、アントマンに仮託された愛情の物語は、種々の「離婚もの」のドラマ映画に比べて、お世辞にも優れているとは言い難い。むしろ、誰しもが分際を弁えぬ「深刻さ」で観る者を疲労させるマーベル映画との相対性という意味で、思わず素朴に没入してしまったのだと思う。そんなわけで、地球防衛隊アベンジャーズに加入してしまっては、何かしらの使命なり契約に縛られていく、あるいはちょっとした「お笑い要員」として賑やかしに徹するのか……などという危惧がないこともないのだけど、ひとまず『キャプテン・アメリカ / シビル・ウォー』の出方を見つつ、今はこの映画に「いいね!」しておきたい。憎みようのない佳作である。

 

《Trailer》