饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

ウディ・アレン監督『ギター弾きの恋』(Review)

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『ギター弾きの恋』(Sweet and Lowdown, 1999) ウディ・アレン

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ウディ・アレンフィルモグラフィーにおいては、ウディ・アレンが役者として出しゃばっていない作品の方が名作であることが多く、その例外ではないこの『ギター弾きの恋』も、その後、それぞれの立ち位置でアメリカ映画の表情を豊かに形成していくことになるショーン・ペンユマ・サーマンの存在感によって支えられている。ショーン・ペンは、ギターの才能には恵まれているが、社会性がなく雇い主に煙たがられ、他者との関係を築くことができない孤独な男――「天才」とされる人間のステレオタイプな描写とも思えるが――をごく自然に演じ、ユマ・サーマンはあのどこか挑発的なルックスと魅惑のプロポーションでギタリストを誘惑する娼婦のような作家の女を演じ、ウディ・アレン映画には不釣り合いなまでのゴージャスさをもたらしている。

 

映画は、ショーン・ペンの演ずる伝説的なギタリストにまつわる回顧録として展開される。ジャーナリストたちの架空のインタビューからの回想映像、という流れで様々な逸話を語るドキュメンタリー映画風の手法は、先の『カメレオンマン』(1983)や『ブロードウェイのダニー・ローズ』(1984)でも試験的に採用されていたものだし、女性に敬意を払えない孤独な男と、その魂に唯一触れることのできた女との出会い、そして別れ、という主題は、フェデリコ・フェリーニの傑作『道』そのままである。 つまり、基本的には既視感バリバリの、「お馴染みの形式かつ正統派な主題のドラマ映画」という極めて穏当な――すなわちあまりウディ・アレンぽくはない――作品に仕上がっているのだ。

 

もっとも、孤独な男(ショーン・ペン)の魂に触れることができたのは、娼婦のような作家の女(ユマ・サーマン)ではなく、本作でアカデミー助演女優賞にノミネートされたというサマンサ・モートンの演ずる、幼児期に高熱を出して言葉を話す能力を失ってしまった、遊園地に隣接した洗濯屋で働く女である。台詞がない代わりにものを食べるシーンが大量に与えられた彼女は、もぐもぐと食べたいものを食べたいだけ食べるある種の陽気さを表現しながら、同時に、ジュリエッタ・マシーナと比較されることの憂いをもその表情に宿しているかに見える。実際、ジュリエッタ・マシーナよりもはるかに抑制の利いた、しかし同時に大胆でもある彼女の表情にハッとさせられる瞬間は一度や二度ではない。

 

ところで、ウディ・アレンフェリーニ、ということで言えば、『アニー・ホール』の序盤だったか、イングマール・ベルイマンか何かがかかる映画館で並んでいる嫌味な客に、こんなことを語らせていたことが思い出される。「たしかに『道』はパワーに満ちた作品だよ。でも、結局それは「負のパワー」だろう。やはり、フェリーニは技巧派なんだよ、技巧派」とかなんとか。これがウディ・アレンフェリーニ評の代弁かどうかはともかく、実際、この指摘は正しくもあり、しかし逆を言えば、馬鹿でも分かる「正のパワー」(=ヒューマニズム)に感動して泣ける人は、最初から映画や文学など必要としていないわけで、自分の純粋さを確認して泣きたいだけなのだろう。

 

「負」を描きながらいかにして「正」を語るか。それも、できれば安易なハッピーエンドに頼ることなく。その意味で、『ハンナとその姉妹』(1986)という素晴らしいハッピーエンドをすでに撮っているウディ・アレンにとっては、『道』的なるもの「負のパワー」の深層に迫ってみたい、というのが、当時抱えていた作家的な課題だったのかもしれない。結果からすれば、男と女の「別離」をもって、ヒューマニズムという言葉すら汚れて見える魂の咆哮を描いた『道』と比べてしまうと、技巧としても映像としても決して悪くはない『ギター弾きの恋』の最後の演出も、やはり、既視的に見えてしまうのは否めない。

 

とは言え、フェリーニ的な男と女の「別離」をある意味ではきわめて通俗的な「失恋」として描いて見せたウディ・アレンの作家性はここでもなぜか憎めず、曇り空の下、水辺のベンチ――彼女の日常性の象徴でもある――での束の間の「再会」のシークエンスで二人が浮かべている表情は、あるいはウディ・アレンが求めた以上のものを表現し得ているだろう。それを見て泣いた人がいたとしてもまったく不思議ではない。こういう佳作をさらりと撮れてしまうあたり、ウディ・アレンの方がよほど技巧派であろうが、しかし、その器用貧乏的な彼の作家性をやはり愛しておこうじゃないか。

 

≪Trailer≫