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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

モンテ・ヘルマン監督『旋風の中に馬を進めろ』『銃撃』

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『旋風の中に馬を進めろ』(Ride in the Whirlwind, 1966) モンテ・ヘルマン

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『銃撃』(The Shooting, 1967) モンテ・ヘルマン

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 モンテ・ヘルマン監督の初期の西部劇、『旋風の中に馬を進めろ』と『銃撃』は、1本あたり7万5千ドルという過酷な予算で製作されている。しかも、関係者の交通費を可能な限り節約するため、撮影は同じようなロケーションで同時進行。出演する俳優陣も何人か重複している。おまけに、予算の上限を超えた分は監督の報酬から天引きという、現代のブラック企業顔負けの恐ろしい契約である。「私の演出が最小限なのは、予算が最小限だからだ」という名言を残しているこの男は、しかし、「予算的に撮れないもの」を最大限に活用しながら、この2本の西部劇をサスペンスの傑作たらしめているのだ。「制約こそが創造性を高める」という論理にはたやすく加担したくないのだが、そうとしか説明のしようがないある種の「逆転」がここにはある。

 

 ところで、西部劇と言えば、いわゆる「西部のフロンティア精神」をめぐった対立が存在する。有名なところでは、西部の精神を持たない町の住民たちに見放された孤立無援の保安官が、たった1人で4人の無法者たちを撃退するというフレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』と、いや、西部の町の住人にそんな卑怯者はいなかった、もっと誇り高く勇敢だったと主張し、西部の精神を正しく語り直すために撮られたハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』との思想的な対立がある。これは、『真昼の決闘』をよりダークかつバイオレンスに語り直そうとしたクリント・イーストウッド監督の『荒野のストレンジャー』と、いや、この作品には西部の精神がないと言って同作への出演を拒否したジョン・ウェインとの対立にまで根深く受け継がれている。

 しかし、モンテ・ヘルマンという男にとって、んなことはどうでもよいのである。なにせ、お金がないのだ。西部の精神などあろうとなかろうとどうでもよい。映画が無事に完成し、上映にこぎ着け、次の製作の話が回ってくる程度にウケてくれればそれでよいのだ。そのためには、クソの役にも立たない西部の精神など語っている場合ではないのである。少しでも、無駄なく、最小限の予算による最小限の演出で、観客に楽しんでもらわなくてはならない。しかも、その苦労を極力感じさせないように細心の注意を払いながら。実際、この2本を西部劇にせよというのは、無難にそこそこウケたいという配給会社側の思惑もあったようである。ところが、その配給会社はあえなく倒産。『旋風の中に馬を進めろ』と『銃撃』は、債務整理をする裁判所の命令によって、3年ものあいだ上演が禁じられてしまった。モンテ・ヘルマンの不条理性は、まずもって自身の人生が体現しているのである。

 

 西部へ行くつもりじゃなかった、西部なんかへ行くんじゃなかった――そんなボヤキすら聞き取ってしまいそうだが、ここでは、モンテ・ヘルマンが西部劇の舞台をどのように「利用」し、またどのように「無視」したのか。いくつかのキーワードとともに、自分なりに検証してみよう。

 

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1・銃声(銃撃、ではなく)

 

 西部劇においては、当然のことながら、銃は必須の道具である。これがなければ始まらない、他の何を省略しようともこれだけはマスト、それが西部劇における銃という存在だ。実際、アンソニー・マン監督の『ウィンチェスター銃'73』(1950)で男たちは、大義名分などありはしない強欲さで、完全無欠の精度を誇るらしい1873年産ウィンチェスターの幻の「名器」をめぐって、血なまぐさく殺し合っていたではないか。また、銃が道具として使われる以上は、何者かが殺されなければならない。特に、「誰が誰を撃つか」は常に重要だ。

 例えば、ジョージ・スティーヴンス監督の決して名作とも駄作とも言えない『シェーン』(1953)では、銃を卒業し農家になろうかと辺境の地を漂流していた優男が、小さな農家に匿われ、地主が送り込んできた卑劣な冷血漢を一発でぶち抜くことで西部の精神とやらを宣誓して見せていた。それは、決して逆では許されなかったわけである。あるいは、ジョン・フォード監督の『リバティ・バランスを射った男』(1962)では、その表題のとおり、「誰が誰を撃ったのか」そのものが物語のキーとなっている。銃の使われない西部劇は存在せず、「誰が誰を撃ったか」が重要でない西部劇もまた存在しないと言ってよい。

 

 しかし、モンテ・ヘルマン監督の西部劇では、そのような公理すらあっさりと放棄されてしまう。もちろん、交通費を節約するという配給会社の言いつけにより、同一の日程の中で何人かのキャストを重複させながら一気に撮影されたとういう2本の西部劇は、『旋風の中に馬を進めろ』にしろ、『銃撃』にしろ、それこそ対人的な「銃撃」のシーンがないでもないのだが、画面に亀裂が入り、映画のギアが変わる決定的な場面でわれわれが聴くことになるのは、誰が誰に向けて撃ったとも分からない匿名的な「銃声」なのである。

 『旋風の中に馬を進めろ』では、馬車強盗を働いたばかりの5人の犯人たちのアジトに、これまた何か訳がありそうな3人組が漂着するわけだが、互いに嘘をつき合い、腹を探り合い、逃げるか殺すかなどの相談を各々でしているまさにその最中、第三者が鳴らした匿名的な銃声が突如として鳴り響き、場を一気に転覆させてしまうのだ。また、『銃撃』での銃声は、状況がまったく理解不能なまま突如として鳴り響き、冒頭のサスペンスをギリギリまで高めるための観客への脅し道具として使われ、また、不吉なオーラを漂わせた謎の女が、彼女の雇った死神のような男に情報を伝達するための合図ともなるだろう。

 

 モンテ・ヘルマンの西部劇においては、「具体的な銃撃」よりも、ただただ「匿名的な銃声」の方がはるかに重要なのだ。もちろん、いちいち男たちが殺し合ったところでリアルな死体など作れないという、予算上の要請もあるのだろうが。

 

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2・女(地獄からの死者としての)

 

 「西部の精神」とやらが、暗黙のうちに「西部の(男たちの)精神」という脂ぎった括弧を隠しているのは明白だが、そんな西部劇においても、鮮烈な存在感を画面の隅々にまで行き渡らせることのできた「女たち」は確実に存在した。ニコラス・レイ監督の『大砂塵』(1954)では、町外れの酒場を営む女主人と、町の大男やら保安官やらを巧みに操る婦人とが冒頭から凄まじい緊迫感でにらみ合い、その色恋絡みの因縁は、彼女たちが撃ち合うクライマックスの決闘シーンにまで持ち込まれていたし、フリッツ・ラング監督の『無頼の谷』(1952)では、無法者たちを匿う代わりにイリーガルな仕事の「あがり」をピンハネするハスラーの女が、秘密の館を仕切っていたではないか。あるいは、ロバート・アルドリッチ監督の『ヴェラクルス』は、国の財産目的で護衛軍と契約した無法者たちの野心的な企みを、侯爵夫人として政府の中枢に潜り込み、従前から同じ財産を狙っていたらしい一枚上手な悪女が果敢に邪魔をするという面白い話だった。あるいは、ヒッチコックが西部劇を撮ったようですらあった『南部に轟く太鼓』(1951)における美女の、命を懸けたスパイ作戦も忘れがたい。

 

 しかし、モンテ・ヘルマン監督の西部劇におけるミリー・パーキンズほど強烈な印象を残す女は他にいまい。1本あたり7万5千ドルという超低予算で、オーバーした分は監督のギャラから天引き、という劣悪な条件下で撮影されたという『旋風の中に馬を進めろ』、『銃撃』のいずれにも出演するこの女優は、その姿を画面にさらしている間、支配的と言ってもよい存在感で――多くの場合、ただただ無言で――佇んでいる。ヒット作に恵まれなかったというこの女優には、男に邪まな欲望を抱かせる妖しい魅力があり、実際、町外れの農家の一人娘として登場する『旋風の中に馬を進めろ』では、その辺境の地に流れ着く男たちからの乱暴な視線を涼しい顔で受け流しているのだが、それは例えば、バート・ケネディ監督の『女ガンマン・皆殺しのメロディ』(1971)におけるラクエル・ウェルチが放つ場違いなお色気とはまったく異質である。『銃撃』における彼女は、男から西部劇を奪ったり、男たちの西部劇を支配したり、男たちの西部劇を惑わす存在としてではなく、性を超越した存在、いわば地獄からの死者として振る舞っている。

 

 ここ日本においては、満島ひかりあたりが、女優としてのセルフ・イメージを確立する上での指針にしているのではないだろうか。

 

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3・エピソードの省略(予算がない!)

 

 兎にも角にも予算がなかったため、『旋風の中に馬を進めろ』にしろ『銃撃』にしろ、ランニングタイムは82分であり、いずれの作品においてもエピソードの大胆な省略がなされている。登場人物たちが抱える背景の説明や、ストーリーラインを提示する上で最低限必要と思われるような近過去の描写すら、極力省かれているのだ。なにせ、描写が増えれば映画のランニングタイムが伸びる、映画のランニングタイムが伸びればフィルム代が増える、ということで、映画はある意味では無軌道とも言える不安定さで離陸する。

 特に『銃撃』では、いかなる理由でどれほどの期間、どこまで遠出していたのかが明瞭でない男が、仲間が待っていると思しき野営場所に戻るところから始まるのだが、彼が目にするのは、死ぬ予兆など微塵もなかったのであろう、仲間と思われる男の墓場であり、誰かに狙われる覚えなどないまったくない彼が耳にするのは、何の前触れもなく鳴り響く「匿名的な銃声」である。その銃声は実は、唯一残っていた仲間が錯乱状態でぶっ放したものだったのだが、仲間がなぜ死んだのか、もう一人の仲間はどこへ消えてしまったのか、彼の説明もまったく明瞭とせず、事態の把握すら満足にできぬまま、場を次の「匿名的な銃声」が襲い、彼らは「地獄からの死者としての女」と対面しなければならない。

 

 通常のサスペンス映画であれば、多かれ少なかれ、「登場人物が状況的に持っている情報」と、「神の視線を映画に浴びせる観客が、特権的に有している情報」とには落差があり、真相を知らない登場人物の行動にわざとらしく「ああダメダメ」などとハラハラして見せたりするわけだが(ヒッチコック映画などはその典型だろう)、兎にも角にも予算がなかったため、『旋風の中に馬を進めろ』にしろ『銃撃』にしろ観客の特権は無情にも剥奪されており、観客だけが知り得るエピソードの描写などまったくなく、「登場人物が状況的に持っている情報」と「神の視線を映画に浴びせる筈の観客が有している情報」とに差はほとんどない。『旋風の中に馬を進めろ』においては多少、情報格差を利用した演出がなされているが、『銃撃』において観客は、登場人物たちと同じように地獄からの死者に怯え、脅され、目的地すら知らされぬまま、辺境の荒野をあてもなく彷徨うしかない。その時、画面に充満するサスペンスとは、「今にも殺されるかもしれない」という暴力の予感ではなく、「もしかして俺は、自分を自分で殺す場所へと向かっているのかもしれない」という不条理への予感である。

 

 予算的に撮れないものは撮らずに、サスペンス効果として利用してしまえばよい。モンテ・ヘルマンの才覚はやはり『銃撃』でこそ発揮されている。

 

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4・不条理

 

 さて、このブログ記事は本来、モンテ・ヘルマンがサミュエル・ベケットの名作『ゴドーを待ちながら』の舞台演出をしていた、という背景を文化的に尊重した上で、『旋風の中に馬を進めろ』と『銃撃』に通底する不条理性を深く考察し、項目4として「不条理」という章を持つ筈であったが、省略する。これもまた、予算の限界によるものであるためご容赦願いたい。

 とりあえず、筆を置きつつ全力で断言しておきたいのは、クエンティン・タランティーノ監督の2作連続となる長編西部劇、12月25日に全米公開される『ヘイトフル・エイト』を待ちながら、さて、2015年の今、いったい西部劇って何から観ればよいのか?という疑問に答え得るのは、モンテ・ヘルマンの超低予算な西部劇、『旋風の中に馬を進めろ』と『銃撃』だけだということである。

 

≪Trailer≫