読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

橋口亮輔監督『渚のシンドバッド』

1990s ★★★★1/2 橋口亮輔 ESSENTIAL (CLASSIC)

f:id:cinemaguide:20151024011503j:plain

渚のシンドバッド』(Like Grains of Sand, 1995) 橋口亮輔

f:id:cinemaguide:20150927171916p:plain

 

 シークエンスが切り替わり、さあ物語の行方はどうなるのだと先走るわれわれを突き放すかのように、視界の端に光の存在を認めながらも、カメラは意図的にその光源からは逸らされ、判別不能な暗闇へと無造作にかざされている。光の正体はおろか、上下左右の空間把握すらままならぬほどの暗さの中で、カメラが少しずつ上を向き始めるとともに、後方へ流れていく道路なり、線路なりの輪郭をなんとか捉えることで、いま、カメラは俯いていたのであり、何かに乗ってどこかへ移動をしている最中なのだとようやく事態を理解することができる。 

 そしてついにカメラが被写体を水平に捉えるとき、そこに写されるのは、二人乗りしたバイクで夜道を走っている少年たちの頼りない姿であったり、傷ついた少女が待つ田舎町へと続く、秘密のトンネルを列車が抜けていくところだったりする(なんの符号だろうか、そのいずれも侯孝賢監督の『憂鬱な楽園』(1996)において似たようなショットが存在する)。時間にすればものの数秒だろうか、しかしこの唐突な暗転と、光の気配だけを忍ばせるカメラワークは、ちょっとしたインタールードの役割を果たしつつもなお挑発的であり、十代というガラス細工の日々を生きる少年少女たちを「安全席」から見ようとするわれわれの平衡感覚を巧みに揺さぶってみせている。

 

***

 

 冒頭、体育の授業で白線引きのローラーを倉庫から取ってくるように教師に命令された二人のひょろっとした少年、伊藤(岡田義徳)と吉田(草野康太)は、薄暗い倉庫の中で石灰の粉をバタバタと入れ替えているのだが、何の前触れもなしに、性的な衝動がギリギリのところで抑えつけられたような、この思いがけない僥倖を死んでも逃すまいとするような、禍々しくも純粋な視線が伊藤から吉田へと注がれている様子が映し出される。われわれはそこで事態を直ちに理解するわけだが、肝心の吉田はそのことにまったく気付いていない。この世の中においてはそもそも叶う恋の方が少ないものだとは言え、高校生たちが織りなすこの群像劇はどうやら簡単には着地できそうもないと、誰しもが腹をくくる場面である。

 その後、グランドに戻る途中で伊藤は失神してしまい、保健室へ運ばれるのだが、眠っている彼の脇にひっそりと、相原という名の少女(浜﨑あゆみ)が忍び寄る。この少女はかつて複数の男の手で暴行された過去を持っているのだが、どういった背景を持つ人物なのか、この時点では知る由もないわれわれは、ただ、少女にとっては特別なのであろうこの時間が終わってくれるなと静かに祈るほかない。その少女は、恐る恐る伊藤の顔へと手を伸ばすのだが、彼が「ううん」と小さく動いたことに驚き、慌てて保健室から立ち去ってしまう。この場面、慌てた少女の身体の重心の置き方がなんとも絶妙なので思わず見とれてしまった(彼女はトイレの個室に「避難」し、見事なアクションで備え付けのトイレットペーパーを引き千切ったりもする)。

 

 伊藤と吉田は、もう一人、奸原(かんばら)という三枚目な少年とともにマイペースな学校生活を送っており、「いかにも男子」というような他愛もない冗談を言って笑いあったりしている。しかし、それぞれに相応の事情を抱えており、例えば伊藤は、母親の多重債務が原因で離婚した父親と二人、中流家庭のシンボルとでもいうべき一軒家で寂しく暮らしているし、彼の親友である吉田は、早くに父親と死に別れており、場末のスナックをなんとか切り盛りする母親を気遣いながら暮らしている。また、奸原の家庭上の背景はほとんど語られないのだが、夏休みに現場仕事で懸命にアルバイトしていることなどから、おそらくは裕福ではない背景を持っているのだろうと推測される。やがて冒頭の予感は悪い意味で的中し、3人は次第に離れ離れになっていくのだった。

 

***

 

 そういえば、後年の『ハッシュ!』公開時のコメントで、橋口監督は、

 

(『ハッシュ!』で描いた)この三人は、自分の単位は「1」で、決して「2」や「3」になることは生涯ないのだと諦めていました。でも、それはちょっと違います。誰も好き好んで人生に何の希望も優しさも見いだせず孤独に生きたいと思う人はいません。彼らだって、心のどこかでは「2」や「3」になっていく自分を願う気持ちがある筈です。そして、彼らはその「2」や「3」をかつて経験したことがあるのです。

 

と述べていた。

 

 これに倣って言えば、『渚のシンドバッド』で描かれる少年少女たちは、「1」をどのように重ね合わせれば「2」や「3」になり得るのか、ということを知らない存在として、互いに傷つけあっている。というか、それ以前に、「1」を重ね合わせることで「2」や「3」になり得るということそのものを知らずに生きている若者たちの物語なのだ。彼らはそれよりも早くに、「2」や「3」がどのようにして「1」に分解されるのかは知っていくことになる。 

 そう、世界は「みんななかよし」ではないということを知ること。世界は自分にとって「他者」であり、世界にとっては自分もまた「他者」なのだということを知ること。異性愛も同性愛も関係なく、恋の告白が成就するか否かもまったく関係なく、世界がどこまでも「他者」の集合であることを知ること。ここでの思春期はそのような通過儀礼の季節として普遍的に定義されているかに見える。彼ら・彼女らがいたずらに傷つけあうのは、言うまでもなく、「他者」とどこまで接触してきたかという経験の差によるものだ。

 

 例えば、吉田と交際し、クラスの学級委員的な存在であり学業の成績も優秀であろう清水は、世界が「他者」であるとはつゆ知らず、自己完結的な判定を人に押し付けて傷つけていることに気付かない。一方で吉田は、自分に告白してきた同性の伊藤を「他者」と認め、それを遠ざけてこそいるものの、自分もまた(こっそりと行為を寄せる相手である)相原にとっては「他者」であることに気付かない。なぜなら、自分は異性愛者であり、変態ではなく、相原のことを「ちゃんと」好きだからである。「世界にとっては自分もまた『他者』である」ということをまったく理解できない人々と、それを必要以上に内面化してしまっている人々。橋口映画において一貫して描かれているのは、そんな彼ら・彼女らの軋轢なのではないだろうか。

 実際、伊藤はと言えば、同性愛者である自分が世界にとって「他者」であることを必要以上に意識化せざるを得ない状況に置かれており、その言動はしばしばシニカルに流れがちである。そのシニカルさが、例えば清水のような人間を傷つけていることに彼はおそらく意識的である。また、高校の男子生徒たちに暴行された過去を持ち、「犯られている時もね、人の身体って温かいんだなあって思ったんです。だから私、信用しないんですよ、人のぬくもりとか」と言ってのける相原は、そのシニカルさにおいて伊藤と精神的に結ばれるのだが、吉田はそれを好きとか恋とかいう感情の問題としてしか解釈できない。映画の終盤、夜の浜辺のシークエンスにおいて、相原はこうした吉田の鈍感さに絶望し、泣き崩れ、自暴自棄になってその身を差し出してしまうのだが、その結末がどうなるかはここに易々と書けるものではないので差し控えておこう。

 

 一つだけ言い添えておくとすれば、自分ですら予想できなかった行動を自分が取り、そのことに狼狽え、浜辺で泣き崩れている子供たちが最後に映っているとすれば、それは、彼ら・彼女らが、自分にとっては自分すらも「他者」なのだということを知ってしまったからに他ならないだろう。その絶望の実直な描写が、例えばフェデリコ・フェリーニの『道』(1954)のラストに匹敵するものだったと言っては言い過ぎだろうか。あるいは、橋口監督は例によって、絶望だけを描いているわけではない。

 特に中盤、お互いの関係を何と呼ぶのかすら知る由もない伊藤と相原が、親密な空気のなかで川沿いの道をとぼとぼと歩き、「あー」とか「うー」とか言うシーンの美しさときたら・・・。お互いを「他者」と認めつつも――というか、他者「だからこそ」なのだが、相原が訊きたいことを真っすぐに訊き、伊藤がそれに真っすぐに答えるだけのこの場面は、この映画の中で唯一成立したコミュニケーションの描写として、観る者のこころを静かに撃つだろう。

 

≪Trailer≫