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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

橋口亮輔監督『ハッシュ!』

橋口亮輔 2000s ★★★★ ESSENTIAL (CLASSIC)

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ハッシュ!』(Hush!, 2001) 橋口亮輔

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 「普通の」とか、「中流の」とか言われる失敗しない生き方がまだモデル的な人生として残っているとしたら、橋口監督が描く「教科書に載っていない人生」を模索する人びとは、それを見下してもいなければ嫉んでもいない。この『ハッシュ!』で描かれるゲイの男性カップルにしろ、二度の中絶を経験してもなお子供を授かることを夢見る女性(彼女は精神病を患っている)は、自ら望んでそのような人間に育ったわけではないし、ただ「これが自分なんだもん」と受け入れた自分の人生のなかで、自分らしい幸せを願っているに過ぎない。取り乱し、激昂し、他者を嫌悪し、他者を見下そうと攻撃するのはもっぱら「普通」の側に属する人びとである。 

 自ずと、彼ら・彼女らの自己像は二重化せざるを得ず、そんな自分を紛れ込ませるのに都市のナイトライフ以上に格好の舞台はないだろう。都市生活のなかで、二重化された孤独を持て余した男たち、あるいは女たち。生きづらさを抱えながらあてもなく夜の町をぶらついてはいるが、何か希望や勝算があるわけではない。成り行きの関係であろうと何であろうと、長い夜を一緒に明かしてくれる相手が見つかれば儲けもの、せいぜいその程度の願いを誰もが大事そうに抱えている。しかしそれは、「孤独の灰汁取り」とでも言うべき単なる「作業」であり、日常の反復性の一部となってしまったそのような「作業」を何度繰り返したところで彼ら・彼女らの孤独が和らぐわけもない。

 

***

 

 しかし、このような題材の映画が2000年代初頭の日本で撮られているとは知らなかった。その素朴な驚きに加えて、あえて指摘するのもはばかられるくらい分かりやすく、この橋口監督という人もカサヴェテスが好きなのだろうなあ、というのが素朴な感想である。とは言え、例えば、ダラダラとした台詞の代わりにすべてを物語る一筋の涙をジーナ・ローランズ演ずる娼婦の頬にさりげなく垂らして見せた、あの『フェイシズ』のようなエッジの立った演出はなく、基本的には人と人とが言葉でぶつかり合い、(他者、とか、LGBT、とかに関係なく、あくまで状況的に理解可能な)感情の沸騰でぶつかり合う。それを橋口監督は長回しを頻繁に使いつつ、見ようによってはカサヴェテス的とも言える「執拗さ」でもってカメラに収めている。

 

 例えば、家族に同性愛者であることを告白済みであるペットショップ勤務の男(高橋和也)と、そうしたオープンな生き方に踏み込めない大型船の設計技師の男(田辺誠一)との同棲先に、ひょんなことから彼らの親戚一同が勢ぞろいする「修羅場」のシークエンスは見世物としては抜群に面白いし、子供を授かれば自分も変われる気がすると半ば本気で信じ、半ば人生を賭けている女(片岡礼子)の台詞には泣けるものがあるのだが、やはり、いささか語り過ぎであり、効果的な台詞は兄嫁のつぶやく「気色悪いわ」くらいのものだろうと思う。 

 『ぐるりのこと。』でも思ったことだが、橋口監督は基本、「それ台詞にしちゃダメでしょー。それじゃただのテレビ・ドラマでしょー」というような言葉まで台詞にしてしまう人なのだろう。そこには映画を「ドラマ表現」としてのみ捉えてしまうことの限界が半ば露呈しており、そのことに橋口監督がどこまで意識的かは定かではないが、「共感」ベースのセラピー的な方向に一線を踏み越えてしまうのではないかという危なっかしさが常に付きまとっているのは事実である。もっとも、仮にそれを誰かが力説して聞かせてみせたところで、この人はそれでもドラマ表現としての映画を撮るのだろう。居直り・開き直りではなく、あくまでも個人の問題として。

 

 しかしそれは、果たして「個人の問題」なのかという疑問も当然抱かざるを得ない。実際、彼らの背景には児童虐待、精神障がい、身体障がい、親の離婚、学校でのイジメ、親との死別、そして性的マイノリティーへの無理解といった「社会の問題」が確実に存在しており、またそれらに対する言及も劇中でなされるのだが、そことの直結は留保し、あくまでも彼ら・彼女らの自己肯定感の欠如という「個人の問題」として一旦は引き取ることで、この映画は人を描こうとしている。そう、「もしかしたらちょっとだけマシになっているかもしれない数十年後の未来」を夢見ながら、社会の問題を解決しようと実際的な行動を取ること、それはそれで当然あってよいのだが、しかしそれと同時に、彼ら・彼女らにとっては「もしかしたらちょっとだけマシになっているかもしれない明日」を実感的にイメージできるかどうかの方が差し迫った問題なのであり、そのことを橋口監督は弁護しているのだと思う。

 

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 以上、少しばかり否定的なことも書き連ねたが、この監督の美徳はその引き際の良さでもあるだろうか。「語り過ぎだが、引き際は心得ている」というのが橋口監督の持ち味である。 

 これは台詞だけではなく、全体のエピソードの長さにも言える。それぞれのシークエンスはある意味では「これからが本番なのに!」という場面で潔くカットされているのだ。例えば、つかみどころがないようにも思える片岡礼子の演ずる女が技師の男にとある理由で「あなたの精子を使って妊娠したいの。子供が欲しいの」と持ち掛け、男がその話を断らなかったことに怒ったパートナーの方の男が、女に「なんで彼なんだよ。男なんて他にもいくらでもいるじゃないかよ」と主張するシーンがあるのだが、「じゃああなたは?なんで彼なの?」と切り返して黙らせてしまうやり取りは、男が反論を準備できないことを見越してそこで終わる。

 あとは、唐突な「空ショット」をいくつかつないで、小津的なカメラ空間が準備された田舎の実家に場面が移る流れはご愛敬、といったところだろうが、時間の季節レベルでの経過をばっさり省略するあたりの思い切りの良さも評価したい。「これから冬本番かなー」と思っていたら、次のカットが夏であったり、台詞や部屋に置かれた写真に仕込まれたそれとないニュアンスで一定の季節が過ぎていることを示したり、その前後の補足説明を一切せずに先へ進んだりと、繊細な感情表現とは対照的な、さりげなくも大胆な時間表現は心地よい。「旧社会の無理解」を喜劇的に取り入れる思い切りの良さもある(息子から自分が同性愛者であるとカミングアウトされた母親は、息子がいずれ女装し、性器を切除したり胸を膨らませるものとばかり思い込み、とにかく「そんなことで動じる女じゃないのよ」とすごんで見せる)。

 

***

 

 果たして、彼ら・彼女らが計画したスポイト妊娠がうまくいったのか、明らかに精神を病み始めていた事務員の女(つぐみ)がその後どうなったのか、彼らカップルはどのようにその後の人生を歩んでいったのか、兄嫁の妻は「気色悪い」と嫌悪した女の演説に本当は異化されていたのではないか、などは一切語られない。それは、橋口監督の映画的な良識からくるものであろうし、この問題が現在進行形のものであることに鑑み、理想を一方的に語るのではなく、観る者にボールを返したかった思いからくるものなのだろうと思う。

 特定の理想を描いて新たな抑圧を生み出すことだけには加担しまいという謙虚さ、これもまた橋口監督の美徳である。未来は相変わらず保証されていない。だが、これだけは言える。鍋を囲ってスポイトに見入るボロボロの3人組は、少なくともその夜だけは、あてもなく夜の街をぶらつかなくてよいのだ。

 

≪Trailer≫