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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

バート・ケネディ監督『女ガンマン・皆殺しのメロディ』(Review)

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『女ガンマン・皆殺しのメロディ』(Hannie Caulder, 1971) バート・ケネディ

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ともすればタランティーノの『ビルを殺せ』の主たるネタ元として面白半分で評価されているかに思える、紛れもなく「B級西部劇」であるこの映画が、それでもなお「映画」たり得ているのは、3人の無法者に夫を殺され、自らも凌辱された女(=ラクエル・ウェルチ)が、自らの心理を決して言葉では語らないお陰である。

 

もしくは、このように説明してもいい。夫を殺された女が自らの心情を説明するための涙を流すシーンは(僕の記憶では)収められていないわけだが、それがはたして、「涙を流した設定だがショットとして採用されていない」のか、「もともと流してない設定」なのかが語られず、また、「流してない設定」なのであれば、その理由が「悲しみよりも暴行のショックが大きすぎるため」なのか、「アイラインやマスカラが取れてしまうのを防ぐため」なのか、はたまた別の理由なのかという背景がまったく語られない、そこが良いのだと。 


あるいは、こうも説明できるだろう。彼女は復讐の理由を語らない。「復讐は正しいことなのか?」という、「良識的な(=退屈な)名作」にありがちな迷いがまったく語られないのだ。それは、言うまでもなく、彼女がそうした疑問を持っていないということではない。あくまでもそれが「語られない」ことだけがここでは重要である。もしくは、こういう観方もできるだろう。この映画においては、「自らの心理を言葉で説明してしまった者は、遅かれ早かれ死を免れない」のだと。

したがって、ベタだなんだと誰にどれほど笑われても構わないが、マジックアワーの浜辺のシーンがけっこう泣けた。それは、沈黙だけが許されたかに見えるこの映画において、まさに一言の言葉もなしに、優しいオレンジの逆光を浴びた男と女の黒い影がゆったりとした平行移動で映され、後ろを歩く女の手の影が(少しのためらいののちに)男の方へと伸びていき、その手を握ることで男を振り返らせたラクエル・ウェルチがそこで浮かべていたであろう、作中でもっとも美しかった筈の表情がまったく映されないからだ。その浜辺のシークエンスはむしろ、一気に引いた美しいロングショットに身を委ね、見違えるほど上達した女の射撃練習の発砲音にその余韻を破らせている。いちいちベタだが、ベタに泣ける演出なのである。

また、あの浜辺で彼女が男に手を伸ばした理由がまったく語られず、夫の死をもってもその涙を画面に映すことのなかった女が、この男の死に際には無防備な涙を見せている理由もまったく語られない。しかし、高名な賞金稼ぎであり、女に射撃の手ほどきをしたこの男が死を免れないことだけは、(格下の賞金首の背中を取ったことに気を緩めたためではなく)ラクエル・ウェルチの殺人的な脚線美にどのような視線を注いでいたのかを言葉で語ってしまった事実からも明らかである。そして女は、沈黙だけが許されたこの映画の最後にふさわしく、言葉を発するための生命を奪われた男と、劇中でもっとも寡黙な謎の男を引き連れ、言葉もなく荒野を横切っていくのであった。

 

≪Trailer≫