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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

モンテ・ヘルマン監督『コックファイター』(Review)

モンテ・ヘルマン 1970s ★★★★

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『コックファイター』(Cockfighter, 1974)モンテ・ヘルマン

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例えば、鶏の眼球周辺を中心に据えたクローズアップが不意に画面を覆う時。例えば、狭苦しい競技場の中で鶏が羽をバタつかせながら戦っている光景が、無造作に画面に映し出される時。例えば、山のなだらかな斜面に整然と/等間隔に並ぶ小さな養鶏場のロングショットが、どこか誇らしげに画面の隅々を独占する時。人は誰しも、「なぜ自分はいま、日常生活の中のそれなりに貴重な自由時間を使いながら、鶏の眼球のクローズアップを/激しく突き合う鶏の姿を/整然と並ぶ養鶏場を見つめているのだろう?」という、摩訶不思議な気持ちに誘われる。

 

もちろん、そのいずれのショットも、その審美性において言えば、観る者を不快な気持ちにさせるものではない。それどころか、ジーンズの鮮やかな青色や、木々に射し込む繊細な光線が、これ以上にないという美しさでフィルムに定着する別のショットを一度でも見せられれば、人はそれまでの戸惑いをいとも簡単に忘れてしまうだろう。あるいは、この映画の作者がモンテ・ヘルマンという報われない男であることを知っているのであれば、多少の不合理であれば最初から受け入れる準備は出来ている筈だ。にも関わらず、鶏の眼球のクローズアップを見つめ、激しく突き合う鶏の姿を見つめ、整然と並ぶ養鶏場を見つめながら、人はなんとなく不思議な気分に誘われてしまうのだ。

 

これが例えば、配給会社やプロデューサーの課す制約にがんじがらめにされていた作家の「本当に撮りたかった映画」としての平和な映画――『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』のようなもの――であれば、話は簡単なのだ。人はそれを、情緒や人情という点で概ね肯定的に受け入れることができるし、その「料理人の再起と家族の再生」という平穏な題材に納得こそすれ、戸惑いはしないだろう。しかし、『旋風の中に馬を進めろ』、『銃撃』、『断絶』といった初期の3作で、「西部劇」と「ロードムービー」といった定番ジャンルを手掛け、製作の現場でそれなりの裁量を与えられ始めたのではないかと思われる新進気鋭の作家が、よりによって「闘鶏」の映画を撮ってしまう時、どうして心穏やかでいられようか。

 

モンテ・ヘルマンという男が、どうしても闘鶏の映画を撮りたかったかどうかはこの際重要ではない。それが撮られてしまったという事実だけが重要だ。例えば、マイケル・チミノ監督の『天国の門』でも、移民たちが闘鶏を肴に博打を楽しむ光景が映し出されていたが、それとてせいぜい十数秒の描写に過ぎなかった。そんな題材で90分近い作品を撮ってしまうことが、映画の世界ではあり得るのだということ。そして、何の因果なのか、そんな映画と出会ってしまうことが世の中にはあり得るのだということ。そう、映画とはそもそも、撮ることも、観ることも、それ自体が本質的に不条理なのだという結論に、人は唐突に達してしまう。

 

しかも、これは「ただの闘鶏映画」ではない。「人生のすべてを闘鶏に捧げた男たちの映画」なのである。男たちは、その日暮らしの危なっかしい生活を送りながら、その時々の全財産を賭け(トレーラー暮らしの男がトレーラーを賭けたりする)、ひたすら鶏を育て、戦わせ、一喜一憂しているのだ・・・。おまけに、主人公の男(ウォーレン・オーツ)は、過去に運命の大一番で敗れており、その時に「しゃべり過ぎなんだよ、お前は」と皮肉を言われて以来、世界への復讐のために口を閉ざし、「二度と言葉を発するものか」と意地になっている(笑)。

 

つまり、『コックファイター』という映画は基本的に、一言の台詞も発しない闘鶏士の男が、カメラの前で――それこそ、鶏のように――右往左往するのを見つめる映画である。それ以上でも以下でもない。「闘鶏に魂を売り渡した男たち」とでも書けば少しは威勢が良いが、しかし実際の競技中と言えば、人間はそれを近くで見守り、応援し、武器の針が刺さってしまったらそれを引き離すことくらいしかできないので、必然的に闘鶏そのものと、試合に向けた鶏の育成・調整の場面に多くのカットが割かれることとなる。そして人は、鶏の眼球のクローズアップを見つめ、激しく突き合う鶏の姿を見つめ、整然と並ぶ養鶏場を見つめながら、映画とは撮ることも観ることも不条理なのだと、無様につぶやくほかないだろう。 

 

 

≪Trailer≫