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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』(Review)

橋口亮輔 2000s ★★★★

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『ぐるりのこと。』(All Around Us, 2008) 橋口亮輔

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「子は鎹(かすがい)」とは言うけれど、では、生後間もなく死んでしまった子供はどうなのだろう。まして、その子供を授かった夫婦が「できちゃった婚」で結ばれた二人なのだとしたら、「子」はそれでも鎹として二人をつなぎとめてくれるのだろうか。それとも、きつく縛り付けて窒息させてしまうのだろうか。橋口亮輔監督の『ぐるりのこと。』は、取り扱いをひとつ間違えば自滅しかねないような、そんな極めて繊細な題材を、リリー・フランキーの抜けのいい飄々とした演技と、木村多江の魂のこもった演技でバランスを取りつつ誠実に描き切った力作である。

 

冒頭、カメラは90年代初頭の陽気の中で無邪気に笑い合う人々の姿を捉え、美大上がりの若い夫婦――定職に就かず、婦人靴の修理屋でバイトをするカナオ(リリー・フランキー)と、小さな出版社でくるくると熱心に働く翔子(木村多江)――の何気ない日々や小さな衝突を巧みな会話劇とともに甘美に描いている。特に、夜道を並んで歩く二人が、授かったばかりの子供がお腹の中で動いたことに喜びを隠さず微笑み合い、「自分、嬉しいんか」と尋ねるカナオの背中に黙って手をまわし、シャツをぎゅっとつかむ翔子の横顔には思わず見入るものがある(正直に言えば、早速ここで泣いた)。

 

しかしながら、この作品を初めて観る人は、時間経過の大胆な省略に戸惑うかもしれない。次のカットでカメラが捉えるのが、誰もが期待する赤ちゃんの無垢な表情ではないからである。時間軸は、出来の悪いレコード・プレイヤーのようにぶつりと一年をまたぎ、二人の子供は「生」と「死」のいずれをも描かれぬままあっという間に過去形の存在となってしまう。以降、物語は――ちょうどリチャード・リンクレイターの労作『6才のボクが、大人になるまで。』のように――夏を主たる舞台とし、一年、また一年と時間軸をザクザクと飛びながら、90年代をやっとの思いで生き抜こうとする夫婦の話へと収束していく。長回しは勝負所で効果的に使われ、音楽の挿入タイミングも相変わらずうまい。まさに橋口監督版の『こわれゆく女』として、一組の夫婦の静かな戦い――自分たちなりの幸せを獲得するための――が、圧力のあるリアリズムとして描かれている。

 

しかしながら、ここで素朴な疑問にぶつからざるを得ない。90年代とは何だったのだろう、と。この国の自殺者は1998年を境に急増し、その後、大局的に見れば(単位人口当たりで見ても)戦後最悪の水準を維持しているし、自殺の主たる要因はうつ病か経済トラブルであるというから、普通に考えれば、自殺の一歩手前で何とか踏みとどまっている人はさらに膨大な数になる筈であり、97-98年以降、この国はいまだに長い「鬱期」にあるのだろうか。98年と言えば、人々がバブル崩壊を実感できるようになった時期だとも言われており、ポップ・ミュージックの世界で言えば、紅白にまで出場した小沢健二がフェードアウトした時期であり、翌年にはフィッシュマンズがその中心人物を失ってしまった頃でもある。

 

『ぐるりのこと。』は、橋口監督自身がうつ病を患ったという個人史が前提にあるとは言え、この国の「鬱期」を準備した90年代をどう総括するか、あるいは90年代をどう乗り越えるか、を描いたという点で、極めて00年代的な作品だったとも言える。個人的な話をすれば、僕はこの映画を坂本慎太郎――他にはありえないタイミングで「空洞です」とつぶやいて見せた男――のインタビュー記事(音楽雑誌『remix』誌、215号)で知ったのであり、なんなら園子温監督の『愛のむきだし』――言うまでもなく、この映画もまた90年代をどう総括するか、あるいは90年代をどう乗り越えるかに触れている――もそこで知った。こういうふわふわした時代語りはナンセンスだとは思いつつ、しかし、07-08年あたりに90年代をなんとか乗り越えよう、という機運があったことをおぼろげに覚えている。

 

橋口監督は、リリー・フランキーの演ずるカナオに法廷画家という職業を与え、彼の眼を通じて社会問題化した事件の公判を点描しながら、90年代の記憶を並べて見せる。もっとも、翔子が陥ることになる長い「鬱期」は、極めて個人的な事情から来るものであり、橋口監督にとって縁の深い俳優もサプライズ的に出演する法廷の模様は、一見、物語の本筋からは乖離しているかに見え、高い演出効果を生んでいるかは微妙なところではある(どちらかと言えば、バブルの終わったダメージをもろに喰らったのは、不動産業を営む翔子の兄(寺島進)である)。しかしながら、橋口監督の意図が分からぬわけでもない。なぜなら、橋口監督は、法廷に立つ人々を「もしかしたらあり得たかもしれない翔子の(つまり、われわれの)姿」として捉えようとしているからだ。

 

そう、そこに立たせられた彼ら・彼女らのことを、橋口監督は、例えば宮台の言う「包摂」の輪からあぶれてしまった、つまりは湯浅誠の言う「すべり台」を、命綱もなく落下してしまった存在として捉えたかったのだと思う。その意図は痛いほど伝わってくるのだが、映画の審美性を貫き、『ぐるりのこと。』を真の傑作にするためには、こうした「大きな」描写をすべて省き、開始から110分前後の、病から再起しかけた翔子が画材屋で絵の具を買って冬の町に出て、ふと「空を見上げる」あの場面で終わりにするべきだったこともまた事実である。本作の青写真たるジョン・カサヴェテスの『こわれゆく女』の見事なエンディングに比べれば、その後の30分がいささか冗長なのは否めない。それを承知で、カナオを重要な事件の公判に「あえて」送り込んだのだとすれば、僕もさらに「あえて」疑問を呈さざるを得ない。そのことを書いてよいものか、しばし悩んだがやはり書いておこう。

 

先に断っておくが、もちろん、僕がこれほどひねくれた人間でなければ、『ぐるりのこと。』は傑作であり、『ハッシュ!』も素晴らしい作品である。では、一方で、こんな疑問を持つことは野暮なのだろうか。つまり、『ハッシュ!』が描くようなズッコケ三人組的でありながらも限りなく理想的な共同体や、『ぐるりのこと。』が描く「逃げない」パートナーを持てなかった人たちは、果たしてどのように生きればいいのだろう?と。橋口監督は、この問いにはいまだ答えていないように思う。それが回答可能な問いかどうかはひとまず保留して、橋口監督の7年ぶりの長編となる『恋人たち』が果たして何を描いているのか、僕はそれをこの目で確かめるべく、迷わず劇場へ駆けつけるつもりである。

 

≪Trailer≫