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饒舌映画ブログ

誰もが、映画をめぐってひたすら饒舌であったときの快楽を知っている。同時に、その果てに待ち受けている徒労の実感をも体験している。映画によって言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶん、あなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐え続けることの息苦しさをも知っているに違いない。欠語と饒舌のいずれを選ぼうとも、救われたためしなどかつてありはしなかったのだ。――『リュミエール』誌 《創刊の辞》より

アンドレ・バザン著『映画とは何か』

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 「映画を〈考える〉言葉」、いや、そんな堅苦しいものではなく、もっと身体に馴染むような言葉、映画の素肌におそるおそる手を伸ばし、触れるか触れないかのところで揺らいでいる言葉を仮にこう呼ぶなら、「映画を〈観る〉言葉」ということになるのだろうが、ではいったい、そんな言葉はどこにあるのだろう?

 

 「映画を〈知る〉言葉」なら、言うまでもなくありふれている。音楽ブログ~音楽メディアをほぼ網羅的にチェックしてきた人間からしても驚くくらい、映画ブログというものは「映画を〈知る〉言葉」という意味では充実しているし、ギリギリとは言え、紙媒体の批評誌も未だ健在である。とは言え、それらが「批評」と自称し売り出されているからと言って、それが「映画を〈観る〉言葉」であることを保証してくれる筈もない。実際、雑誌の名前は忘れたが、複数のライターによるクロス・レビューを採用している雑誌の誌面において、是枝監督の『海街diary』をして、長澤まさみの尻がどうだ脚がどうだと書いているライターがいて、その羞恥心の無さに素直に驚くとともに、それが有価物として売り出されている状況にめまいがしたのを覚えている。

 一方、「映画を〈考える〉言葉」はネット上でも劣勢であり、現代批評理論を援用したような気鋭の映画評論サイトの類も、だいたいは更新が数年前に止まっている。しかしそれを嘆く立場に筆者がいるかと言えばそれは微妙であり、それは、それらの「映画を〈考える〉言葉」が、「現代批評理論を援用して映画の素肌に手を伸ばすための試み」というより、「現代批評理論の枠組みの中に、それに矛盾しない映画を位置付けるための試み」に思えるからで、つまり、それらは本質的には映画が存在せずとも成り立ってしまう言葉なのである。映画はせいぜい、彼らが重要視する理論を例証するためのサンプルとなるに過ぎない。「映画を〈考える〉言葉」とは、時にそのようなものなのかもしれない。

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 映画についての言葉に興味がある日本人であれば、まずその著作を手に取ってみる存在として蓮實重彦の名が挙げられる。この元東大総長の書く文章が好きか嫌いかは、ここではひとまずどうでもよい。蓮實の唯我独尊な文章は、そこに込められた理論が正当なものかどうかを読者に考えさせない乱暴な側面を確かに持っているが、「映画を〈観る〉言葉」について未だ多くの手がかりを残しているという点で大いに刺激的である。ここでは、蓮實が1985年の短評《映画の本 ベスト30》においてぶち上げた「映画語」という概念を引用してみよう。

映画は面白い。ところが、映画をめぐる書物のほとんどは面白くない。〈映画語〉を話せる人が映画の本を書くとは限らないからだ。映画批評や映画理論の多くのものは、たかだか批評家や理論家の母国語で書かれているにすぎないのである。(略)では、〈映画語〉とは何か。それは、あらゆる人にとっての外国語である。両親が〈映画語〉を話していたという人は世界に存在しない。また、両親が〈映画語〉に通じていても、それが子供に遺伝するとは限らないのだ。それは、ある時期、何かをきっかけとして独習するほかない他国語なのである。

 これではやはり、理論がぶっ飛んでいて何とも理解しがたい、という声が聞こえてきそうだ。より端的に言うなら、「映画のように面白い」言葉のことであろう。それをここでは、仮称として「映画を〈観る〉言葉」と呼ぶこととする。全体の評価を別とすれば、筆者は、蓮實が1993年に書いたカサヴェテス論を読んで、「映画を〈観る〉言葉」がこの世に存在するのだということを知った人間である。それはまさに、「映画のように面白い」言葉であった。が、何事にも「元ネタ」というものは存在するもので――いよいよここからが本題になるのだが――、蓮實の重要な「元ネタ」の一つに、先の《映画の本 ベスト30》にもその著作を挙げているアンドレ・バザンがいる。

 アンドレ・バザン(1918-1958)とは、言わずと知れたフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者であり、初代編集長であり、映画批評におけるゴッドファーザーである。彼の主要な論考をまとめた『映画とは何か』が、2015年、その主要なものを集めた選書として、岩波文庫から新訳されたことは、「映画を〈観る〉言葉」を知ろうとする者にとってのささやかな事件であったと思う。筆者もこれをすぐさま購入し、全体を二度、好きな箇所はさらに複数回読んだような人間なのだが、悲しいかな〈映画語〉は一向に上達しない。このブログを読んだらしいメディアからの執筆依頼があったとはいえ、それは筆者の〈映画語〉能力を何ら保証するものではない。

 一度、バザンを知る契機となった蓮實へと話を戻すが、彼の最後の映画批評をまとめた『映画時評2012-2014』に収録されている伊藤洋司との対談、《映画を〈人類〉から取り戻すために》では、バザンをめぐる愛憎が理論的な検討を交えながら語られていて面白いのだが、「私のバザン批判はいささか複雑で、映画について思考するなら、絶対にバザンは読んで欲しいと思うと同時に、バザンも批判せずにどうして映画など見てこれたのかという苛立ちをも覚えているのです」という告白は、「近く文庫で『映画とは何か』の新訳が出るからまたとない好機です」という注釈まで挟まっているので、筆者がここで何を語るよりも、簡潔にして強力な推薦の言葉となるだろう。

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 実際、ここまでぶち上げておきながら、「面白いでとにかく読んでみて欲しい」という以上のことを言う準備もしていなかったのだが、建前上、いくつか補足しておきたい。

 まず、『映画とは何か』とは、基本的には理論書である。写真や絵画、演劇、文学と比較しながら映画を定義づけようとする「映画基礎論」のようなものがまずあり、ドキュメンタリー映画とフィクション映画の比較から「映画にとっての現実」を思考した言葉は、自ずとモンタージュ等のショット分析的な撮影と編集の理論へと飛び火し、自然な帰結として、イタリア映画を題材とした「映画にとってのリアリズム」を思考する下巻へとダイナミックに連鎖していく。そこには、批評家の作家性を担保するために必要なだけの理論は十分に書き留められている。

 しかし、『映画とは何か』が、ガチガチの理論書かと言えばそんなこともなく、バザン自身が、イタリアの映画批評家グイド・アリスタルコへ向けた書簡《ロッセリーニの擁護》で、こんな風に書いているように、

批評の厳しさは、商業主義的な妥協や、政治的なデマゴギー、芸術的な野心の低下を指摘することに向けられるべきであり、あらかじめ決められた美学的枠組みを芸術家に課すことを目的すべきではないはずです。

 理論を映画の頭にすっぽり被せて拘束してしまおう、というタイプの批評家ではないことが伝わってくる。彼は時に、「愛」という抽象概念を理論の行き届かないところに送り込んでいるのだが、その逡巡はおそらく、「理論に対する自信のなさ」ではなく、「理論を被せることで映画の本質を〈見落としてしまう〉ことへの恐れ」ゆえのものであり、その結果としてわれわれが目撃するのは、批評家の理論的挫折ではなく、むしろ、批評家の職業的義務としてひた隠しにしていた映画への無償の愛があふれ出てしまう甘美な綻びなのである。

 それがもっとも高い水準で結実しているのが、下巻に収録されている《『カビリアの夜』あるいはネオリアリズモの果てへの旅》だ。主要な箇所を引用したい気持ちは山々だが、この小論の素晴らしさは、作品と論考とを相互に、是非とも実地に確認されたい。個人的には、前述した蓮實のカサヴェテス論と並び、「映画のように面白い」言葉として、つまりは流暢な〈映画語〉による愛の告白として、これを読んだ。自分が最終的に目指すべきレベルを設定するとすれば、それが可能か否かはともかくとして、ここ以外にはない、という感銘を覚えたことだけ言い添えておく。

 また、個人的な2015年のマイブームであった西部劇にも50頁ほどが割かれており、非常に勉強になった。蓮實の西部劇論は、基本的にはこれに対する反作用なのだということを知ると同時に、アンソニー・マンの『裸の拍車』やジョン・フォードの『捜索者』を凌ぐ戦後西部劇における最高傑作と断言されているバッド・ベティカーの『七人の無頼漢』を、少なくともここ日本では観る機会が非常に限定されていることを知り、筆者の〈映画語〉が一向に上達しないのも、こうした劣悪な教育環境のせいだと豪語したくなるほどには悔しい思いをしたことも、せっかくなので付記しておこう。

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 さて、〈映画語〉を教えてくれる映画は、そして映画の本は、どこにあるのだろう。「音楽ファンのためのブックガイド」を銘打った別冊ele-king『読書夜話』では、樋口泰人が《いま発見すべき映画本》をいくつか紹介している。そこで書かれているように、「映画を観るということの面白さを、映画が面白いのではなく、観ることが面白いのだとさえ言いたくなるようなやり方で」語りかけてくるような本と、言葉と、来年も出会えればなと思う。また、前述した蓮實による《映画の本 ベスト30》もまだまだ残っている。それ以前に、もちろん、そこで言及されている映画たちを見なければ〈映画語〉も「映画を〈観る〉言葉」もないのであって、〈映画語〉の習得はまだまだ先の話になりそうである。

 

《公式サイト》

映画とは何か(上)

映画とは何か(下)

 

《解説》